EXECUTIVE BLOG
2024.2.12
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
日本での孤児院設立を決意する 澤田美喜さんの話でした。
美喜さんは 何度も書いていますが
京都大学アメリカンフットボール部ギャングスターズを
私の父と一緒に創部した 澤田久雄さまの お母さまです。
美喜さんは 岩崎家の令嬢で クリスチャンで外交官でもある 澤田錬三さんと
結婚をされて 海外生活を長くされ
イギリスでの生活の時に 孤児院を目にする事になり
それが経験となって その後日本で孤児院設立となるのです・
今日はそのあたりの話になります。
彼女が帰国したのは1943(昭和18)年のことでした。
太平洋戦争の戦火が日に日に激しくなり、食糧不足や梵鐘の供出、学徒出陣など国民生活がいよいよ緊迫の度を加え始めたときでした。
澤田家も例外ではなく、美喜は最愛の息子たちを戦場に送らねばならなかったのです。
長男信一は学徒出陣、次男久雄は特攻隊へ、三男晃は海軍の司令部へ入隊しました。
そして、敗戦の年の1月、三男晃の戦死が伝えられました。
この時に 先に書いた アルゼンチン滞在中での
「戦争はいけません。一番悪いことです」と言う
ガルシア夫人の言葉を強く思い出されたそうです。
そして、終戦後の1947(昭和22)年、
買い出しの商人などで混雑した列車に乗り込んだ時に闇物資摘発のために見回っていた警官の目に止まったのが、
美喜のすぐ上の網棚に置かれた細長い風呂敷包みだったのです。
「包みを開けろ」と警官は美喜に命じたのですが、それは彼女のものではなかったのです
しかし美喜は命ぜられるままに包みを開きました。
なんと風呂敷包みから出てきたのは、数枚の新聞紙にくるまれた混血児の赤ん坊の死体だったのです。
警官と乗客の疑惑の目が美喜に注がれたとき、同乗していた一人の老人の証言で美喜への疑いは晴れたのですが、
そのとき、彼女は心の奥深くに静かなそして確かな声を聞いたのです。
「あなたは、たとえいっときでもこの子の母とされたのなら、なぜ日本国中のこうした子どもたちのために、その母となってやれないのか」
このとき、美喜は45歳で混血孤児の養育に残る生涯を捧げる決心をした瞬間だったのです。
それで実家の岩崎家に帰り、父に自分の計画を打ち明けました。
さらに、大磯にある岩崎家の別荘を施設として使わせてほしいと申し入れたのです。
それを知った多くの日本人からは
「なんて物好きな。日本と戦争をした、敵の国の子ですよ」
と非難されたそうです。
しかし父岩崎久弥は、美喜から悲惨な孤児たちの話を聞くと、
目に涙をいっぱい溜めて
「世が世なら、大磯の家ぐらい寄付してやるのだが・・・」と言ったのですが、
当時の大磯の別荘はGHQの命令で、没収されていたのです。
没収された大磯の別荘を取り戻すためには、進駐軍トップに直談判するしかなく、
美喜の活動は総司令部を訪ねることから始まりました。
幾日も幾日も日参した甲斐あって、ようやく総司令部は買い戻すことに同意したのです。
運営の為に自らの着物まで質にいれてお金に替えていたある日、
美喜は英国大使館から呼び出しを受けました。
占領下の東京で生涯を終えたエリザベス・サンダースという76歳の老婦人が、40年間の貯金のすべてを日本の社会福祉事業に寄付したいとの遺言を残したので、
美喜のホームにそれが贈られるというのです。
その額は当時の6万2千円ほどでしたが、
美喜はホームに贈られた初めての寄付だったことに感謝し、エリザベス・サンダースというイギリス人女性の名を、そのままホームの名にしたのです。
そしてついに
エリザベス・サンダース・ホームとして、昭和23年2月1日に開園して、理事長兼園長として最初の子ども二人を迎えたそうです。
当時の世間の風当たりも強かったようで、
「敵国の兵隊の子を育てるのか」などと、ホームに怒鳴り込まれることはしょっちゅうでしたが、
この子たちを見捨てるわけにはいかない、自分が彼ら彼女らの母にならなければ、
と美喜は気持ちを奮い立たせて生涯をこの事業に費やしたそうです。
戦争でこのような悲劇がおきています
そして一番の犠牲者がこのような子供達です
今でもウクライナでは戦争が続いており 日々戦争孤児が生まれています
平和を願うしかありませんが
戦争孤児と言えば 日本やウクライナだけではありません
そして 孤児を助けたのは 美喜さんのような一人の日本人だけではないのです
かつて 我が日本軍も外国の孤児を助ける為に大きな動きを行っていたことがありますが
これは 国内では 殆ど報道されていません
が かつて日本軍によって助けられた孤児たちは その後 地元に戻って そして
いまでも 日本の為にある活動を続けているのです
その話とは??????
は
明日に続く、、、、。