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社長&顧問ブログ

2019.7.3

オランダ商館

高光産業株式会社 妹尾八郎です。

 

長崎通勤編も終わり

 

本論に戻らなければなりませんが

 

長崎に出島があったことは 殆どの方はご存知でしょうが

 

貿易の中心の町が そもそも長崎には無かったということを

ご存知でない方が多いようなので

 

そのあたりの 説明をさせて頂きます。

 

 1550 年,一隻のポルトガル船が平戸に入港しました、これ

が長崎県下に欧州の船が入港した最初とされているのです。

 

ポルトガル貿易は当初平戸で松浦氏との問で行われ,ポルトガ

ルも日本貿易で莫大な利益を得ていたのです。

しかし,後の松浦氏との確執により貿易の場を1571 年長崎に舞

台を移したのでした。

 

ポルトガルとの貿易と併せてイエズス会により長崎にキリスト教の布教が広がり,

イエズス会の日本司教の仮司教座となるなど, 住民の殆どがキリシタンとなっ

たのでした。

しかし,1614 年の大禁教令以降,宣教師追放,教会施設の破壊が行われ,

二十六聖人の殉教や踏絵で歴史的に有名な追害と殉教が相次いで行われていくのです。

 

 ポルトガル人は長崎にきてから60 年の問, 市内を自由に散宿していたのですが,

幕府はキリシタン禁令と混血児防止の必要から

一箇所に隔離収容することを定め,1634 年長崎の商人らに命じて海を埋め島を築いて家を造らせ,これを出島と称したのでした。

その後,1639 年,島原の乱後,キリスト教布教を伴うポルトガルとの通商関係は切れて出島は空家となりました。

 

 江戸時代の外国貿易は当初自由貿易であり,相手国はポルトガル,スペイン,オランダ,イギリス,中国の国々でしたが,ポルトガル貿易は禁止されて

1641 年には貿易国はオランダ・中国の2 国,貿易港も長崎一港に限られて

その後長く続く鎖国体制となったのです。

オランダはポルトガルと異なり,貿易に宗教活動を伴わないので貿易相手として

幕府に認められ, 1641 年ポルトガルに替わって出島に居住,幕府・ヨーロッパ貿易を独占していくことになるのです。

 

江戸時代末期,出島の商館医師としてオランダから派遣されたシーボルト

は,在日期間中に日本医学の発展に貢献し,また,日本文化を西欧に紹介したのです。

 

 

このシーボルトのある一件が無ければ

もしかしたら 日本はアメリカの植民地になっていたかもしれない

事があるのですが

 

これを書いたら延々と関ヶ原間まで遡らなくてはならなくなりますから

 

一旦ここで 長崎編は完結と言うことで。

 

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