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社長&顧問ブログ

2025.3.25

サンピエトロ大聖堂

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは イエスが何故帝政ローマ人によって磔にされたのか?

の話しでした。

 

今日は この続きとなります、、、。

 

世界一小さな国、バチカン市国。観光名所としても有名ですね、

サン・ピエトロ大聖堂やミケランジェロの天井画など、世界中から人が訪れる場所です。

でも、ちょっと不思議に思ったことはないでしょうか?

 

「キリスト教の中心地がローマって…え、イエスを処刑したのってローマ人じゃなかったっけ?」

 

この矛盾のような関係、実はとても興味深い歴史の背景があるのです。

「なぜバチカンはローマにあるのか?」に 興味がありました、、、

その謎が最近やっとわかりました。

 

イエス・キリストが活動していたのは、今のイスラエル周辺です。

当時は「ユダヤ地方」と呼ばれていて、ローマ帝国の支配下にありました。

イエスは当時の宗教や社会のあり方に疑問を投げかけ、新しい考え方を広めていきました。

 

当然、それに反発する人たちも多く、最終的には「秩序を乱す存在」として捕らえられ、

ローマ総督ピラトの命令で処刑されました。

十字架にかけられたのは、ローマの法律に基づいた刑だったわけですね。

 

つまり、イエスを処刑したのはローマ側だった、というのは事実なんです。

じゃあ、なぜそのローマがキリスト教の中心になったのか?

それには後の展開が大きく関わっています。

 

イエスの死後、彼の教えは弟子たちによって広まり始めました。

中でも有名なのが「ペトロ」と「パウロ」という2人の人物です。

彼らは精力的に各地を回って宣教し、最終的にはローマにたどり着きます。

 

伝説によれば、ペトロはローマで亡くなり、

その墓の上に現在のサン・ピエトロ大聖堂が建てられているのです。

こうした背景から、「ローマは特別な場所」として意識されるようになったと言うことです。

 

ただ、最初から歓迎されていたわけではなく、

むしろ当初はローマ帝国にとってキリスト教は「厄介な少数派」で、

弾圧や迫害も繰り返されました。

ところが、歴史はある時、劇的に動きます。

313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し

その後、380年にはなんとローマ帝国の「国教」になったのです。

 

理由は様々あるようですが、

ざっくり言えば「帝国全体をまとめるには、共通の信仰があったほうが都合がよかった」

という政治的判断も大きかったようです。

 

こうして、ローマはキリスト教の本拠地となり、「ローマ教皇」という存在も登場します

これが、時代が進むにつれて、宗教だけでなく政治的にも大きな力を持つようになっていきます。

その後、長い時間をかけてローマ教皇の権力は拡大し、なんと中世にはイタリア中部を支配する「教皇領」まで持つようになったのです。

しかし、19世紀にイタリアが統一されると、教皇領は消滅し

教皇はバチカン内にとどまり続け、「バチカンの囚人」とも言われるような時代が続きます。

 

そして1929年、イタリア政府との間で「ラテラノ条約」が結ばれ、

バチカン市国が正式に独立する事になったのです。

ローマ市内にあるけどローマとは別の国、と言うのはこういう訳だったのです。

 

もともと処刑を命じた側だったローマが、キリスト教の中心地になる――

これは「歴史の皮肉」と言う人もいれば、「人間社会の不思議な可能性」

と捉える人もいるようです、、、

 

一度は敵対していた場所が、やがて信仰や思想の中心になる。

ある意味で、許しや対話の象徴にも見えるかもしれませんね。

歴史って、直線的に進むだけじゃなく、こうした「思いもよらない展開」があるから面白いのだと思うのですが、、、、

 

ここで もう一つ疑問が湧いて来る事があるのです、

 

ペテロの墓の上に建てられたのが サンピエトロ大聖堂で そこがバチカンになるのですが

 

いや そこじゃないのでは????と 私は感じてしまうのですが

 

その話しは??????

 

明日へ続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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