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2025.7.12
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは チベット仏教の話しでした。
今日は チベット仏教を産んだ チベットの話に進みます、、、。
チベットという土地は、遥か昔からヒマラヤの山々に囲まれた高地で、
人々が自然とともに静かに暮らしてきた場所です。
標高が高く、空気も薄いこの地には、仏教が深く根付いており、
信仰心の厚い人々が、日々の暮らしの中で祈りを大切にしてきました。
チベットの歴史をたどると、その始まりは7世紀ごろにさかのぼります。
ソンツェン・ガンポという王様がチベットを統一し、
ここからチベット王国が始まったといわれています。
この王は仏教を国の宗教として取り入れ、
中国やインドと関係を結びながら文化を発展させていきました。
その後も幾つかの王朝や支配者が現れては消えていく中で、
チベットは独自の文化と宗教を守りながら、ある時はモンゴル帝国の庇護を受けたり、
またある時は中国王朝とゆるやかな関係を持ちつつも、
自らの仏教国家としての道を歩んできました。
特に重要なのがダライ・ラマ制度の確立です。
17世紀にはダライ・ラマ5世の時代に、
政治と宗教の両方をダライ・ラマが担う「政教一致」の体制が整いました。
この体制のもと、チベット仏教はますます深まり、
僧院が建てられ、多くの修行僧が学び、
祈りの声がチベット全土に響きわたっていました。
19世紀から20世紀にかけて、世界は大きく動き始めます。
列強諸国がアジアに進出し、
清王朝が崩れ、中国が中華民国という新しい国になると、
チベットは一時的にほぼ完全な独立状態になります。
1913年には、13世ダライ・ラマが清の支配からの独立を宣言し、
実質的に独立国家として内政や外交を行っていたのです。
この頃のチベットは、現代的な近代国家という形ではなかったものの、
外からの干渉をほとんど受けずに、自分たちの伝統や文化を守って暮らしていました。
しかし、
1949年に中国で共産党が政権を取り、中華人民共和国が誕生すると、
状況は大きく変わります。
新しい中国政府は「歴史的に中国の一部だった場所を取り戻す」
という方針を掲げ、チベットにも目を向け始めました。
1950年、中国人民解放軍がチベットに進軍し、
その翌年には「17か条協定」という文書が
中国とチベットの代表の間で交わされました。
これにより、チベットは表向きには自治を保つとされながらも、
実際には中国の統治下に置かれることとなったのです。
この時から、
チベットは「チベット自治区」と呼ばれるようになり、
名目上は中国の一部となりました。
しかし、
この変化はチベットの人々にとって非常に大きく、つらいものでした。
もともと平和で信仰を大切にしていたチベットの社会に、
軍隊と政治の力が突然入ってきたのです。
1959年には、ついに大きな事件が起こります。
中国の支配に対してチベットの人々が大規模な蜂起を起こし、
暴動へと発展しました。
この時、ダライ・ラマ14世は身の危険を感じ、
インドへ亡命することになります。
ダライ・ラマと共に数万人のチベット人もインドやネパールに逃れました。
こうして、チベットは精神的な指導者を失い、
自治区として本格的に中国の支配を受けるようになったのです。
それ以降、中国政府はチベット仏教に対して厳しい姿勢を取り続けています。
多くの僧院が破壊されたり、再建を制限されたり、
僧侶の数を管理されたりするようになりました。
また、チベット語の教育が減らされ、中国語が優先されるようになったことで、
文化の根っこである言葉さえも弱められようとしているのです。
では、なぜ中国はチベット仏教を弾圧するのでしょうか??
の話は 明日へ続く、、、。