EXECUTIVE BLOG
2024.4.28
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 私が個人的に長崎の英雄若しくは偉人と考えているのは
シーボルトの娘の 楠本イネと 高島秋帆だと言う話でした。
さらに もう一人あげるとすれば
日本最初の戦場のカメラマンと言われている 上野彦馬でしょうか、、。
彼は、坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影している事で有名です。
で 今日は 高島秋帆の話からです。
全国的にはあまり知られていない名前かもしれませんが
東京にある大団地の高島平団地と聞けば その名前を耳にしたかたは多いかと思います。
自殺の名所として よく知られている団地ですね、、。
その高島平と 長崎の高島秋帆がどのような関係があるのかが、今日の話となります。
高島秋帆を語るのには まず フェートン号事件を知らなければなりません。
日本の学校は 幕末から近代史をあまり教えていないので この事件の事を学んだことある方は少ないかもしれません
フェートン号事件は、1808年に日本の長崎港で起きた事件です。
当時、日本は鎖国政策を取っており、長崎でオランダと中国、対馬で朝鮮、薩摩で琉球王国、蝦夷でアイヌと限られた国と貿易を行っていた事は分かります。
しかし、18世紀末から19世紀にかけて、市場や植民地を拡大したいイギリスやロシア、さらには捕鯨船の寄港地を求めるアメリカなどの外国船が日本近海に姿を見せるようになったのです。
フェートン号事件は、イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に不法に侵入し、オランダ商館員を人質にとり、食糧や水を要求した事件の事を指します。
1808年8月15日、フェートン号はオランダ国旗を掲げ、オランダ船の“フリ”をして長崎港に侵入することに成功したのです。
ここでオランダ商館員たちは当然オランダ船と勘違いして出迎えに行ったのです。
そこで あろうことか、オランダ商館員2名を人質にとり、
薪や水、食料を要求しましたのでした。
これを受けて当時の長崎奉行の松平康英は人質を救出するためにフェートン号の焼き討ちを計画しましたが、
警護の手薄さが露呈し、結局は幕府とオランダ商館はイギリスの要求を受け入れてしまったのです。
なんと汚い手を使うのかと思ってしまいますが
これが成功した事で イギリスは図に乗ることになりました、、
それで 幕府は、、、
どうすることにしたのか???
は
明日に続く、、、。