
EXECUTIVE BLOG
2025.8.10
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 原子爆弾投下場所が 小倉から長崎に変更になったと言う話でした。
今日はこの原子爆弾投下は何故決定されたのか?? の話に進みます。
第二次世界大戦の終わりが近づく中、
アメリカは日本との戦いをどう終わらせるか、大きな決断を迫られていました。
太平洋の島々で続いた激しい戦いは多くの命を奪い、
日本本土に攻め込めばさらに多くの犠牲が出ることが予想されていました。
1945年4月、フランクリン・ルーズベルト大統領が急に亡くなり
副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領の座につきます。
就任して間もなく、
彼は「マンハッタン計画」という極秘の原子爆弾開発計画の存在を知らされます。
7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で人類初の原爆実験「トリニティ」が行われ、
まばゆい閃光と衝撃波が大地を揺らしました。
この知らせを受けたトルーマンは、
ドイツで開かれたポツダム会議でソ連のスターリンやイギリスのチャーチル首相に
「非常に強力な新兵器を持った」とほのめかします。
そして7月26日、アメリカ・イギリス・中国の連名で、
日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されました。
しかし日本は、はっきりとした返事をせず態度を曖昧にしたままでした。
その頃、アメリカでは日本本土に攻め込む計画
「オペレーション・ダウンフォール」が検討されており、
最初の九州南部への上陸作戦では米兵だけで10万人、
日本側も合わせると数百万の犠牲が出るという予測がありました。
陸軍長官スティムソンは、戦後の反感をできるだけ抑えるため、
文化的に大切な京都を原爆投下の候補から外すよう進言し、採用されます。
一方で科学者たちの中には、原爆使用に反対する声も強くあり、
レオ・シラードらは「使う前に降伏条件を示すべきだ」と嘆願しましたが、
トルーマンの判断に影響を与えることはありませんでした。
そして8月6日朝、
米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島の上空に現れ、
ウラン型原爆「リトルボーイ」を投下しました。
爆風と熱線が街を一瞬で破壊し、約8万人がその場で命を落とし、
年末までにさらに多くの命が失われました。
3日後の8月9日には、
当初狙っていた小倉が煙幕で見えず、B-29は第二目標の長崎に向かい、
プルトニウム型原爆「ファットマン」を投下します。
この日も数万人が犠牲となり、街は廃墟と化しました。
同じ8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破って対日参戦し、
満州や樺太、千島列島で戦闘が始まります。
こうした連続する出来事が決定打となり、
日本は8月15日に降伏を決め、9月2日に降伏文書に調印して戦争は終わりました。
トルーマン大統領は後に
「できるだけ多くのアメリカ人の命を救いたかった」と繰り返し語っています。
日本の女性や子供への同情も示しながら、
「本土侵攻をしていたら、米兵だけで25万人、
日本側にも同じくらいの犠牲が出たかもしれない」と説明しました。
1953年の手紙では、ポツダム会議の帰りに国務長官や国防長官らと協議し、
自分が最終的に原爆使用を決めたこと、その選択によって戦争を終わらせ、
自由な国々が新しい時代に向き合う機会を得られたと記しています。
晩年になっても彼の考えは変わらず、
原爆投下は戦争を終わらせるための最後の手段だったと信じ続けました。
しかし、原爆がもたらした光景はあまりにもむごいものでした。
焼け野原となった街、倒れた人々、深い傷を負った生存者、
そして放射線による長く続く苦しみ。
これらは人類史に深く刻まれた悲劇です。
原爆投下が本当に軍事的に必要だったのか、
それとも政治的な意味を持っていたのかは今も議論されていますが、
確かなことは、多くの命が一瞬で奪われ、
失われたものは二度と戻らないということです。
だからこそ、私たちはこの悲劇を忘れず、
同じ過ちを繰り返さないようにしなければなりません。
核兵器は一度使われれば、取り返しのつかない被害を生み出します。
その破壊の力と悲しみの大きさは、広島と長崎が教えてくれています。
たとえ戦争のさなかで「やむを得ない」と思える状況であっても、
核兵器の使用は人類全体の未来を危うくします。
だから私たちは、対話をあきらめず、
お互いを理解し合い、国と国との間に信頼を築く努力を続ける必要があります。
平和はただ戦争がない状態ではなく、互いの命と心を尊重し、
共に生きる意志によって成り立つものです。
あの日広島と長崎の空に立ち上ったきのこ雲を、
私たちは歴史の教訓として胸に刻み、
子や孫の世代に二度と見せない――
それが、あの時を生き延びた人々、そして命を落とした方々への、
私たちの大切な約束なのだと思います。