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社長&顧問ブログ

2020.10.1

モスクワでのラブロマンスが歴史を変えた??

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです

 

大きな歴史の流れを曖昧な記憶の中で書いているので

かなり史実に反しているかもしれませんが

勝手な解釈とご容赦ください

 

ここで 改めて シーボルトと大国屋光太夫の年譜について

見て見なければならないのですが

 

シーボルトは ドイツに居る時に日本に興味を持つことになったのです

このシーボルトが産まれたのが1796年です。

 

一方 大黒屋光太夫が台風により遭難して長い漂流生活を経て

やっとの思いで日本に帰国したのは1792年です

 

つまりシーボルトが産まれる4年前の出来事です。

 

 

それから もう一つ思い出して頂きたいのが

寛政の改革で迫害を受けた 林子平です

林子平が 亡くなったのが、1793年です

 

 

この3人には時代的に見て まったく接点がないのです。

 

しかし この3人が居なければ 幕末のペリー来航時の 八丈島は米国の統治だと

言う要求を跳ね返すことが出来なかったのです。

 

他にも 歴史上表には出てこない人物がが沢山いるでしょうし そもそも 彼らが産まれて無ければ話は全く進まないのですから 彼らの両親はどこで出会ったかまでもが重要な

歴史の働きとなるのです。

もう頭が混乱してしまいますね

 

そして 彼らを繋ぐ人物として 桂川甫周がいたり 光太夫を助けたロシア人のラスクマンもいるのです。

 

そして 更に彼らを繋ぐ重要な役割を果たした名もない一人の人物がいるのです。

 

それが 今回の話で出て来る人物で 光太夫がやっとの思いでロシアから帰国できると

喜んでいた時に 皆の意に反して 一人だけモスクワに残ると言い出した男なのです。

 

十年以上 日本へ帰ることを夢見て頑張ってきたのに 何故それを捨てて 彼の地に残ることを決断したのか??

その後彼が ロシアの英雄にでもなっていれば 歴史上の人物として名が残ったのでしょうが それほど重要な人物ではないのです

 

しかし 彼が残ることで歴史が変わったのです

 

そのモスクワに残った理由と言うのが

モスクワに 好きな女性が出来たからだったのでした。

 

えーーっそんな理由で 帰国を諦めたのと 我々は思うでしょうが

きっと そこには 歴史には残っていない ラブロマンスがあったのでしょう

 

彼は ロシアの女性と一緒になるためにモスクワに残ったのでした。

 

だから それがどうしたのか? と言う話になりますね

 

今までの話を 思い返してください

 

林子平の書いた三国通覧図説を桂川甫周が命がけで守って懐に忍ばせ

長崎まで蘭学の勉強に行くのです

そこで オランダ人との出会いがあったのでしょう オランダ人は帰国するときに

何やら日本語で書いた本を たんなる土産品として持ち帰ったと思われるのです

 

そして オランダに帰国して 日本からこんな本をもらったと学者仲間にみせたのです

 

しかし ヨーロッパーには 日本人はいません なんて書いてあるのか皆目見当もつかないのです

 

 

しかし しかし 運命のいたずらとはこの事と思いませんか

 

 

それは、、

 

 

明日に続く、、。

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