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社長&顧問ブログ

2022.4.17

モンロー秘話

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは マリリンモンローとジョーディマジオマジオの話から

ディマジオと親交があった 稲尾和久の話になってしまいました。

 

稲尾は 剛腕投手で 全盛期は 「神様仏様稲尾様」と呼ばれて

いたのですから、本当に凄い投手だったと思います。

 

今の マー君と大谷を足したくらい凄かったのではと思います。

 

さて 話は戻りまして マリリンモンローとディマジオの愛の秘話についてです。

 

二人の馴れ初めは

現役を引退した翌1952年の春にアスレチックスが球団の売り出し作戦として新人ハリウッド女優のマリリン・モンローを球団の宣伝用写真として使う事がきまり、

ディマジオが彼女の写真を見た時

「自分もあんな美人と一緒に写真を撮られてみたいもんだ」

と言った事をきっかけにモンローを紹介され、ハリウッドで会食をしたのが最初だったようです。

モンローは その時は ディマジオが有名な野球選手だったこと知らなかったようで

芸能界の話ばかりしていたためにディマジオも最初は大人しくしていたのですが

途中から野球好きの俳優が加わり、ディマジオの活躍を賞賛したのです。

この時その俳優がディマジオが大活躍をしていた事話した事で、

モンローも大変興味を持ちだしたと言われています。

そして、その帰りにディマジオが車でモンローを送っていく途中、

「野球のことは何も知らなくてごめんなさい」とモンローは謝るのですが、

それを聞いたディマジオは

「気にしないで。私も映画についてほとんど知らないから」と言ったそうです。

この事が縁で、1954年1月に二人は結婚し、

同年2月1日に新婚旅行で福岡を訪ることになったのです。

しかし

当時日本では、アメリカ大リーグの情報は今の様に入って来てませんでしたから

スーパースターであるはずのディマジオよりも日本人にとって有名だったモンローの方に記者の質問が集中したのでした。

 

この事でディマジオはプライドを傷つけられてしまった上に

モンローは朝鮮戦争のアメリカ兵を慰問する仕事で

一人で朝鮮半島へ向かってしまったのでした。

女優の仕事に忙しく自由奔放なモンローと、独占欲から嫉妬が芽生えたディマジオの間にはその後喧嘩が絶えなかったそうです。

 

このような事が続き結婚後わずか274日で二人は離婚してしまうのでした。

しかし、ディマジオは離婚後も新しい恋に傷ついたり心ないマスコミの攻撃にさらされて孤独に陥った時に頼ってきたモンローを一途に支え続けていたそうで、

彼女の亡くなる数日前には2人が再婚するつもりである事を友人に語っていたのです。

そして

1962年にモンローが亡くなった時には、葬儀はかつて夫だった男の中で

ディマジオだけが参列したのです。

その時ディマジオはモンローを苦しめた映画界からの参列はすべて断ったのでした。

この時モンローの遺体の前で「愛している」と声をかけ、

涙を流したと伝えられているのです。

 

その後ディマジオが「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった・・・」と

周囲に話をしていたようで、

マリリンモンローが亡くなってから20年にわたり、

週3回、彼女の墓に赤いバラを送り続けたというのです。

 

ディマジオは1999年3月8日に肺がんで84歳で亡くなるのですが、

亡くなる数日前に友人に語った最期の言葉は、

「死んだら、マリリンのところへいける」 だったのです。

マリリンモンローの事を生涯愛していたのです。

 

ディマジオは マリリンモンローの死は

ある人間に殺された と考えていました。

 

この ある人間とは??????

あの人?????????????

それは???????

 

明日に続く、、、、、。

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