EXECUTIVE BLOG
2024.8.17
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 坪内逍遥と二葉亭四迷の話でした
彼らは 日本文学界の革命児と言って良いのではと思います
それを可能にしたのは 明治維新だったのでは思います。
それまでの旧体制を一気に変えた力は 文学にまで及んだのでしょう。
きっと 音楽やその他の芸術にも及んだのだと思いますが
その話になると またまた話が逸れてしまうので、、、
もう少し 文学の話で、、、。
坪内逍遥や二葉亭四迷の名前は 歴史の教科書で見た事がある程度の方が
殆どではと思いますし その作品や内容までなかなか知らないと思います。
逍遥は、二十代半ばにしてシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳を出版して
いるのです。
昨日書いた坪内逍遥の『小説神髄』は、
1885年に発表され、日本の近代文学の基礎を築いた重要な作品だと言われています。
この作品では、小説の主な目的は「人情」を描くことであり、
世態風俗を次に描くべきだと主張しました、
これが近代文学の走りだと言われています。
この人情を書く事は シェークスピアの翻訳をする事で身についたのではと思いますね、、
で、 逍遥の画期的な主張に対して、二葉亭四迷は批判的でした。
彼は、逍遥の理論がまだ近代小説の形に完全には至っていないと考えました。
四迷は、逍遥の理論を批判しつつも、それを基にしてさらに発展させる形で自身の文学理論を展開して行くのですから 四迷は更に改革はだったと思います。
とにかくこの二人が行った事は、日本の文学界における重要な転機となった事に
間違いないと思います。
では、二葉亭四迷は言文一致体をどのように生み出したのかの話に戻りますが、
答えは、逍遥と同じく翻訳から学んだのだと思います。
四迷は、ロシア語の小説を日本語に翻訳していたのです。
ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を訳す過程でその精神を汲み取り、
近代的かつ西洋的な心情とリズムを日本語に落とし込んでいったのです。
異なる言語を自国語に訳す過程で新しい文体を作る作業は、
言語に長けた二葉亭四迷は離れ業に等しい方法で、
話し言葉と書き言葉の一致した文章「言文一致体」を創造したと言う事になります。
鎖国時代は 海外の本は日本に入って来ませんでしたから 維新により 外国との
交流が出来るようになったおかげであると考えられます。
それまでは 海外の言葉も勉強する事がご法度でしたから この二人が
イギリス文学やロシア文学を翻訳できるようになるまでに 相当な努力をしたのだと
想像できますね、、、。
そしてその甲斐があって日本文壇に衝撃を与え歴史を変えた、言文一致体の小説の
「浮雲」が発表される事になるのです。
この文学界の大偉業ともなる小説「浮雲」を
新人無名小説家の文章なんか誰が読むかが問題でした。
四迷は考えた末に彼は妙案を思いつきました。
それが大先生・坪内逍遥のネームバリューを使うことだったのです。
『浮雲』は坪内雄蔵(坪内逍遥の実名)の名前で売り出されたのです。
と言うのも坪内逍遥はすでに『当世書生気質』『小説神髄』で名声を得ていたからなのです。
作風を批判したのに ちゃっかり名前をつかわせてもらうとは苦肉の策だったのですね、、。
現代の言葉を借りるなら まさに これが ハロー効果 と言う事になります。
このようにして 世に出た 浮雲ですが
では 内容は??? と思いますね
その内容をかいつまむと
の話は
明日に続くのか
否か?????
は
明日に続く、、、、。