
EXECUTIVE BLOG
2025.5.8
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 江戸時代の寄せ絵と風刺画の話しでした。
明治に入ると世界情勢が大きく変わりましたね
今日は 明治における風刺画の話しに進みます、、、。
明治時代、日本が近代国家としての歩みを急速に進めていた中で、
国際社会の中での立ち位置を模索する出来事が次々と起こっていきました。
その中でも「三国干渉」は、
日本国民にとって強烈な屈辱と怒りをもたらした象徴的事件でした。
そしてこの感情は、当時の新聞や雑誌に掲載された風刺画によって強く視覚化され、
民衆の間で共有されていくことになります。
三国干渉とは、
1895年、日清戦争に勝利した日本が清国との間で結んだ下関条約によって
遼東半島を獲得した直後に、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に対し、
その返還を要求した出来事です。
軍事力や国力の差を背景にしたこの干渉に対して、
日本政府は抗議を唱えながらもやむなく遼東半島の返還を受け入れることとなり、
国民の間には「勝って取ったものを奪い返された」という深い憤りと屈辱が広がりました。
この出来事を受け、
当時の新聞や雑誌──特に『滑稽新聞』『団団珍聞』『絵入日報』など──では、
挿絵として数多くの風刺画が描かれました。
作者名は明らかでないものが多く、無署名あるいは「画工」などの名で発表されていますが、それらの作品はいずれも、国民感情を代弁し、列強の圧力に屈した外交的現実を痛烈に描いたものでした。
中でもよく知られているのは、三国(ロシア・フランス・ドイツ)を擬人化した動物たちが、子供に扮した日本からおもちゃ(=遼東半島)を奪い取る場面を描いた風刺画です。
ロシアは熊、ドイツは犬、フランスは鶏として描かれ、
日本は泣きながらその「おもちゃ」を奪われている子どもとして表現されました。
この絵は、三国の横暴さと、日本の無力感、そして国民の怒りを一目で伝える力を持っていました。
また、「臥薪嘗胆」という故事をモチーフにした風刺画も流行しました。
これは、中国の越王・勾践が呉に敗れた後、薪の上に寝て苦い肝を舐め、
仇討ちを誓ったという話に由来するものです。
明治の風刺画でも、薪の上に身を横たえ、苦悶の表情で肝を舐める少年(日本)が描かれ、その周囲に嘲笑する三国の象徴的な動物たちが配される構図がいくつも描かれました。
これらの作品は、屈辱を忘れず、いずれ必ず力を蓄えて再び列強に立ち向かうという決意を表しており、当時の国民の心理を映し出すものでした。
こうした風刺画は、単なるユーモアや諷刺にとどまらず、政治意識を喚起し、
国家の方向性をも形づくる一種のプロパガンダとしての機能も果たしていました。
当時の教育水準を考えると、文章では伝わりにくい国際情勢も、
絵であれば庶民にも直感的に理解されやすく、
より広範な層に情報と感情が届いていったのです。
新聞と風刺画は、庶民と外交をつなぐ強力なメディアだったのですね、、、。
三国干渉の風刺画が民衆に与えた影響は大きく、これを契機として日本国内では「富国強兵」「軍備拡張」の動きがいっそう強まっていきました。
また、のちの日露戦争に向けた国民的覚悟や軍事的自信の下地としても、
この時期の屈辱と風刺による記憶の共有は、大きな役割を果たしていきます。
今日、これらの風刺画は国立国会図書館のデジタルコレクションや一部の歴史資料館などで閲覧することができます。
明治日本が国際社会の荒波の中でいかに自らの立場と未来を見定めていたかを知る手がかりとして、極めて貴重な史料です。
筆一本で世界を描き、国民の思いを可視化した明治の風刺画は、
絵画としての芸術性だけでなく、時代を語る「生きた証言」として、今も私たちに多くのことを教えてくれます。
日清 日露戦争の風刺画は アノ人が描いた絵が有名ですよね、、、、
その人とは????
は
明日に続く、、、。