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社長&顧問ブログ

2022.4.13

三宅医師

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは アインシュタインが博多に何故来たのか?

と言う話でした。

 

船の中で急病にならなかったら 福岡の三宅医師を出会う事が無かったのです。

この出会いがあったから 福岡講演が決まったと言うのですから

福岡の人は 三宅先生に感謝しなければと思います。

 

そこで またまた 別の興味が湧いたのは

この三宅先生 何故この船に乗り合わせていたのか??? という事です。

 

それは、

第一次世界大戦のあと、国際外科学会は大戦勃発の原因となった敵国であり敗戦国のドイツとオーストリアを学会から締め出す決定をしたそうです。

この時三宅先生は国籍で外科医をしめだすというのはおかしいと主張して、

反対の署名集めに奔走して、アメリカやヨーロッパを訪問し多くの署名を集めたのでした。

 

その結果、世界的に著名な医学者の賛同署名が集まったそうです。

そうした活動の帰り道に乗船した北野丸にアインシュタイン夫妻が偶然同乗して日本へ向かっていたのでした。

この時に アインシュタインが発病して 手当したのが 三宅先生だったと言うわけなのです。

 

三宅先生はその後、

もう一度ヨーロッパでアインシュタインと再会して、旧交をあたためたそうですが、

1945年、米軍の空襲で、岡山の防空壕に避難していたところ爆弾が落ちて亡くなったそうです。

息子さんが岡山の自宅に呼び寄せ、鳥取へ疎開する2日前のできごとだったそうです。

あと二日早く疎開していれば助かった命だったのですが

運命はわからないものです。

 

戦争が終わった後、

息子さんがプリンストンにいたアインシュタインにご両親の死を連絡して

墓碑銘へのメッセージをお願いしたところ、

ドイツ語と英語のメッセージが届いたとのことです。

 

そして アインシュタインからのメッセージは三宅先生のお墓に刻まれることに

なったのでした。

 

そのお墓には

 

ここには三宅博士と

みほ夫人が眠っている。

ふたりはともに

人の世のしあわせのために働き、

そして世の恐ろしい迷いの犠牲となって

ともに亡くなった。

 

アルベルト アインシュタイン

 

と書かれています。

日本を愛し日本人を慈しんだ天才アインシュタインと

医学を通して日欧の橋渡しに貢献した日本人外科医にとって、

戦争とは何だったのだろうと感じてしまいます。

 

三宅夫妻のお墓は 徳島県の美馬市にあるそうなのですが

なかなか行けそうにはありません。

このメッセージを送った アインシュタインも 三宅医師が亡くなった10年後の

1955年に亡くなったのですが

 

亡くなった後 彼の遺体が、、、、

 

ある事をされるのです、

 

その ある事とは???????

 

それは????

 

明日に続く、、、、、。

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