
EXECUTIVE BLOG
2025.11.17
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 三島由紀夫が 市ヶ谷で自決する話でした。
この事件は 世間を騒がせましたが
その前年 過激な全学連の集まる場所に 三島由紀夫が単身乗り込むと
言う出来事がありました。
これまた 世間を騒がせました。
当時は過激集団と言われていた全学連の集会に単身乗り込むのは
自殺行為だとも言われました、
が
それがどうなったのか????
が 今日の話になります。
三島由紀夫と東大全共闘の討論会は
一九六九年五月十三日に東大駒場の講堂で開かれましたが、
この公開討論は単なる文学者と学生の口論ではなく、
激動の六〇年代の空気、学生運動の激化、戦後日本社会の価値観の揺らぎ、
そして国家と個人の関係が根本から問われていた時代の精神を象徴する歴史的事件でした。
当時の日本は高度経済成長のただ中にあり、一方で政治・社会・倫理の基盤が大きく変化し、若者を中心に「戦後民主主義への疑問」や「既存秩序への不信」が渦巻いていました。
東大では医学部処分問題を発端として全学的紛争に広がり、
安田講堂事件に象徴されるように学生と大学、
そして国家権力の衝突が日常となっていました。
学生たちは大学を単なる学問の場ではなく、社会全体を映す体制装置と捉え、
その解体こそが社会変革の第一歩であると主張していたのです。
一方で三島由紀夫は、
戦後日本が経済発展を優先するあまり精神的伝統や倫理観が失われ、
言葉だけが独り歩きして行動が伴わない風潮に強い危機感を抱いていました。
彼は学生たちの過激な行動を単なる暴力とは見ず、
戦後の空洞化した精神に対する「若者の純粋な反乱」として興味を持っていました。
学生たちが掲げる理念や、既存秩序に対する強い反発は、
三島が生涯追い求めた
「言葉と行動の一致」というテーマと深い部分で重なり合っていたのです。
学生側もまた三島を体制の象徴として論破する対象でありながら、
一方で彼を議論の場に引き込むことで
自らの思想的水準を高めたいという思いがありました。
こうした双方の利害と関心が一致し、この異例の討論会が実現したのです。
当日、駒場の講堂には約三千人の学生が押し寄せ、会場は熱気と緊張に包まれていました。
壇上に現れた三島は、
黒い半袖シャツに太いベルトを締め、パンツスタイルというラフな格好で、
革命を唱える学生たちの前に“丸腰で現れた大人”として強烈な存在感を放っていました。
学生たちの怒号や野次が飛び交う中、
彼は一歩も引かず、むしろその混沌を楽しむような落ち着いた表情で登壇しました。
討論の中心テーマは大学とは何か、革命とは何か、学生運動の正当性とは何か
という根源的な問いでした。
学生たちは大学を支配装置とみなし、変革のためには解体すべきだと主張しました。
これに対して三島は、
君たちが批判している戦後民主主義こそが君たちの思想の母体であり、
その価値観を利用しながら体制を否定するのは自己矛盾だと指摘しました。
また革命についても、
破壊だけでは新しい価値は生まれず、理念を語るだけで行動が伴わない革命は空虚だと断じ、「君たちは言葉で革命をやっているだけだ」と挑発しました。
学生たちは三島を体制の代弁者として激しく攻撃し、場内には怒号と拍手が交錯しました。
しかし議論が進むにつれて奇妙な変化が生まれます。
三島は学生たちの思想的未熟さを批判しながらも、
その根底にある「純粋な衝動」に強い共感を示し始めました。
彼は彼らの破壊衝動を、戦後日本が失った
「真剣に生きようとする意志」の現れだと評価し、
学生たちの中にも次第に三島を単なる保守の象徴ではなく、
行動によって自己を貫こうとする“本物の大人”として尊敬する声が広がっていきました。
学生の一人が後に「丸腰で革命の真ん中に飛び込んできた大人」と評したように、
敵対的だった空気は次第に不思議な親近感と連帯感に変わっていったのです。
討論のクライマックスで三島は
「僕は君たちのように対国家的存在として生きてみたい。
ただし、その結末は君たちよりはっきり知っている」と語り、
この言葉は翌年の自決を予告するものとして今日でも語り継がれています。
さらに彼は「青春とは議論ではなく行動だ」と述べ、
学生たちの胸を撃つような言葉を残しました。
討論は三時間ほど続きましたが、勝敗が決したわけではありませんでした。
むしろ互いが相手の純粋さを認め合い、
思想的立場の違いを超えて精神的な共鳴が生まれるという極めて異例の結末になりました。三島は学生たちの無目的性を批判しつつ、
「その無目的さにこそ美がある」と語り、
学生たちもまた三島の誠実さと覚悟に敬意を抱きました。
この討論は革命と保守の対立を超えた「精神の対話」であり、
日本現代史において類例のない貴重な瞬間となりました。
そしてこの討論から一年半後の一九七〇年十一月二十五日、
三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊で自決します。
学生たちは後年、
あの討論の時点で彼がすでに決意を固めていたことをどこかで感じていたと語っています。
つまりこの討論会は、
三島が日本の未来の精神を若者の目で確かめる最後の場であり、
同時に彼自身の最終行動への静かな序章でもあったのです。