EXECUTIVE BLOG
2024.2.9
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 終戦後 日本に占領軍がいたと言う話でした。
終戦直後は 日本は本当に貧しく 物資も不足しており
子どもたちは 米兵をみかけると 「ギブミーチョコレート!」と
声をかけて 栄養価の高い チョコをを貰う為に物乞いをしていたのです。
その子供たちの多くは戦災孤児で 親も居ない為にこのようにして生活を
していたのです。
しかし まだ この世に生をうけて良かったと思います
当時 産まれてまもなく捨てられて命を失った赤ちゃんも沢山いたのです
その子たちを助けるべく 立ち上がったのが 京都大学アメリカンフットボール部創立者の澤田久雄さんのお母様の 美喜さんだったのです。
今日からは この美喜さんの話から、、、。
1946(昭和21)年6月、ラジオのニュースが、日米混血児が生まれたことを報じました。
「これは戦後のアメリカと日本の最初の握手であり、太平洋の東西両岸を結ぶ愛のしるしです」
と、アナウンサーは言葉を飾り立てて報道してました。
そんなニュースが流れていたころ
澤田美喜さんは大変な光景を目にしたのです。
それは川の中に赤ん坊が浮いている光景だったのです、
そのとき 近くにいた人たちが
「進駐軍の兵隊に乱暴された日本人の女がここで赤ん坊を産み落としたそうだ」と言っているのが聞こえたのでした
また数日後、白い肌の赤ん坊が死体となって転がっているのを目にしました。
「米兵の子じゃないか」と見物人の一人がつぶやきました。
それから幾日もしないうちに、今度は、
コモに包んだ赤ん坊の死体が川から引き上げられる場面に出あいました。
「始末に困ってこんなところに捨てやがって」と、
ののしる言葉が美喜の耳をに入ったのです。
このように 戦後すぐは日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれて、祝福されずに生を受けた子たちも居たのです。
その多くが父も知らず、母からも見捨てられていくのです。
その事を見た澤田美喜は心に誓ったのです。
「日本には大勢の祝福されない混血孤児がいる。私の天命はこの子らの母になることだ」と。
そして 彼女はその後の半生を そのために尽力するのです
その話は
明日に続く、、、。