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社長&顧問ブログ

2021.3.20

不幸を乗り越え彦根と水戸は親善都市に

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

昨日からの続きです

 

昨日までは 何故かITの話から 江戸時代の話に逸れて

しかも 桜田門外の変になってしまいました。

 

教科書では習った出来事ですが 奥深く学ぶことなく過ごしたので

よほど興味のある方しか 事の真相を知らないと思います

 

大体 旧暦3月3日に大名が江戸城に登城の日を襲撃日と浪士達は選んだのですが

そこに多くの観客がいたなんてことなど知りませんでしたね

町民は見の前の惨劇を見てどう思ったのでしょうか?

 

天下の江戸幕府の大老の首が刎ねられたと言う噂は 噂好きの江戸の町民によって

一気に広まり 知れ渡っていたのですが 幕府はそれを認めず

大老は怪我をしたと言う事にしてしまうのです。

 

しかしこのあたりから もう 幕府は長く持たないなと 皆感じていたと思うのです。

 

所で 何故 その現場に 薩摩藩の人間が居て大老襲撃に加わったのか?

そもそも 水戸と薩摩と彦根の関係とはについて 少し触れたいと思います。

実は

水戸藩と薩摩藩の間で、大老を暗殺後、京都で挙兵し天皇の許しを得て幕府を倒す計画があったのです。

しかし、薩摩藩はこの計画を白紙にしてしまったのです。

そのことは水戸藩には知らされていませんでした。

完全な裏切り行為ですね、

それを知らない大老暗殺を実行した水戸浪士たちは

「井伊大老を討ち倒したら皆で京都へ上ろう!」と決めていたのです。

そこで 薩摩軍と一気に倒幕に動こうと考えていたのですが

これが 空振りだったと言うわけです。

 

水戸浪士たちの被害は、1人は闘死、4人は負傷していたため自ら切腹し

8人は投降ののち斬首されてしまいます。

生き残った者たちは、京へと向かいましたが辿り着けず捕まる者、

薩摩藩との計画が破綻していたため、路頭に迷う者ばかりだったのです。

これでは 死んでも死にきれなかったと思います。

一方

被害者であった彦根藩の被害は、8人が死亡。10数名が負傷をするのです。

いい迷惑ですね、、、。

 

しかもなんと事件後、井伊直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、

生存者に対する処分が下されました。

襲われた時に 藩邸から近い事もあって 急の知らせをしに戻った家来が沢山いました

一体どのくらいの敵がいるかわかならいのですから

応援を呼びに戻るというのも頷けるのですが、

なんと

その処分と言うのが

 

生き残り=主人を守れなかった者たち。

ということで傷を負った者は皆切腹させられるのです。

又無傷の者は

戦ってないってことで斬首された上に並びに家名断絶にされてしまうのです。

切腹は武士の名誉だったとしても武士が斬首ってことは、武士として死なせてもらえない、

武士以下としての死の扱いにされてしまうのです。

 

残された家族はその後どのような生活をしたのでしょうか?

 

親戚一同や世間からは 意気地なしの侍の家族だとか言われて

差別的な扱いを受けていたのではと思います。

 

そういう目に遭った方としては この恨みは忘れることは出来ませんね

 

代々水戸を許さないと言い残されて来たのではと推測されます。

 

しかし 同じ人間ですから 遠い過去の事は忘れて仲良くしようという事になり

 

桜田門外の変から108年たった昭和43年、

明治100年を機に敦賀市の仲介で

彦根市は水戸市と正式に和解して親善都市となり、

各分野で親善が図られることになるのです。

 

今後もこの両市が仲良くして欲しいと願うばかりです。

 

さて

話は前後しますが 水戸の浪士が 襲撃前に集まった場所があるのです。

これは

今の東京都23区内のある場所です

 

それは ○○山なのですが

 

23区内で一番高い山です。

 

確か 日本で一番低い山が大阪にあるはずですが 標高2メートルくらいだった

気がしますが

 

浪士が集まった山もそれよりは高いですが 山と呼べるのかと思うような場所です

 

何回かそこに行ったことがあります

 

この山では 西郷隆盛と勝海舟も一緒に上って そこから江戸の町を眺め

この街を火の海にするわけにはいかないと 勝海舟は感じ

江戸城の無血開城をきめることになるのです

 

この 歴史的の有名は ○○山とは?????

 

 

それは、、、

 

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