EXECUTIVE BLOG
2023.5.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 神仏習合の話でした
日光東照宮は神社でありお寺でもあるのですね、
また そこに祀られている 徳川家康は 仏様から神様になって
祀られていると言う事になります。
そのへんの寛容さが日本人の良さでもあるのではと思います。
で今日は 仏教と言えば の話になります。
日頃 街を歩く時は 何にでも興味を持ちながら歩いて そこで
色々な発見がある事が楽しみだと言ってますが
そうは言いましても やはり無意識になっていて いつも通っているにも
関わらず変化に気が付いてないと言う事がありました。
それは 東京の自宅の側に 不忍の池があり
普段は全く気が付かなったのですが 今回の様に神仏習合の事を意識していたからなのか
この池の側に 全く今まで気が付かなかった 銅像を発見したのです。
前々から 東京駅で見かけた銅像の話とかも書いていましたが
銅像を見つけると 何故ここに こんな銅像があるのだろうか? と興味を持つのですが
今回の銅像は 無意識で通っていたのか、気が付かなかったのです。
その銅像は お坊さんの銅像だったのです。神仏習合の事を考えていた時だったので
この銅像がお坊さんと言う事で これは一体なんだ? と思ったと思うのです。
しかし 不忍の池に何故 お坊さんの銅像があるのか?にも疑問が湧きます。
近くには 寛永寺とか 沢山のお寺があるので その中に在って良さそうなのですが
何故か そのお坊さんの銅像は 不忍の池の遊歩道沿いに建っているのです。
上野公園の正式名称は 上野恩賜公園と言います。
その中に 不忍の池もあるのです。
この公園の歴史は
江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた事に始まります。
その後、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇りましたが、
戊辰戦争で寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため、
一帯は焼け野原と化してしまったのです。
それで1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィが、公園として残すよう日本政府に働きかけた結果、
1873年に日本初の公園に指定されたのです。
と言う事で 不忍の池も もともとは寛永寺の中にあったと言う事になります。
それで このお坊さんの銅像が 不忍の池の遊歩道に建てられているのか?
と勝手に想像してしまったのですが
この銅像の名前を見て 寛永寺の僧侶とかではなく
日本仏教界に大きな影響を与えて行った方である事がわかりました
そのお坊さんとは???
については
明日に続く、、。