EXECUTIVE BLOG
2022.11.2
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは やっとかんばん方式の話が一段落して
戦前の軍人 永野修身の話になりました。
常識に囚われてはならないとは思いますが
何故当時の日本は 無謀にもアメリカに対して戦争を始めてしまったのか??
そこには 勝てるわけないから戦わずして負けるのか?
負けると分かっていても戦う決断をしたのは 何故なのか???
について考えなければなりません
この事を 軍人永野修身の生涯を見る事で少し理解できるのでは?と思います。
現代人は 戦争は遥か昔の話になってしまっていて
軍人の名前を言えと言われても 殆どの方は一人も出ないでしょうし
歴史を少しかじった人でも出て来る人物は 明治時代の軍人では
乃木希典 東郷平八郎 くらいでしょうし
昭和の軍人だと 山本五十六か 映画硫黄島の戦いで有名になった 栗林中将くらいではないでしょうか?
私が少年時代は 戦争漫画も多くありまして ゼロ戦の名パイロット 坂井三郎中尉や
真珠湾攻撃の際の 源田実中佐 等の名前でワクワクしていました。
また シンガポール攻略を成功させた山下奉文大将などは 子供心に英雄だと思っていました。
彼らの活躍は 又後日という事で
今日は昨日からの続きとなります。
で昨日の話は 司馬遼太郎が書いた 坂の上の雲によりますと
日本軍は203高地から見下ろせる旅順港を攻撃したように書かれていますが
ここに有った旅順要塞から、旅順港は見えません。
見えるわけなどないのです。
地形的に、港が見えるところに要塞なんて作らない。
そもそも旅順要塞は、旅順港に停泊するロシア艦隊を護るために、ロシアが築いた要塞です。
要塞から旅順港が見えるのなら、要塞を攻めようとする敵にも港が見えてしまいます。
これでは何のための要塞かわからなくなってしまいます。
旅順要塞は、旅順港を背後から攻撃しようとする敵を、港が見える位置まで侵入することを防ぐ目的に作られています。
ですから、旅順要塞は、山二つ分くらい、港の後方に作ったのです。
日露戦争後、この旅順要塞跡地には、乃木大将が敵味方の慰霊のために建てた祈念碑が
建っています。
戦後乃木大将は 敵味方を区別することなく供養したのです。
しかし あろうことが後に そこには中国共産党が建てた石碑があるのです。
その石碑には
「かつてこの地で、日本人とロシア人が意味のない殺し合いをした云々」
と書かれています。
国家のための戦争で勇敢に闘った兵たちを、敵味方の区別なく慰霊しようと祈念碑を建てたのが乃木大将だったのですが、
第二次世界大戦後、中国共産党政権はそれを
「意味のない馬鹿げた殺しあい」と書いているのです。
先にも書きましたが
戦犯で処刑された 松井岩根大将も 戦後 敵味方なく慰霊碑を建立し
毎日霊を慰める為早朝からお参りしていたのですから
ちょっと 中国共産党の考え方には違和感を覚えますね、、。
でここで またまたおおさらいになりますが
何故 日本軍は難攻不落と言われた旅順要塞を攻略しなければならなかったのか???
その時 永野修身は 何を進言したのか?????
は
明日に続く、、、、。