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2024.8.15

二葉亭四迷

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 江戸までの文学と明治以降の文学の話になってしまいました。

 

一体前の続きは何だったのか?? と 話が逸れまくっていますが、、、、。

 

江戸が維新で明治に代わり それまでの常識が一変しました。

 

文学もそれまでの 文語体から口語体に大きく変わったのでした

 

そして そのけん引役となったのが 二葉亭四迷と言う作家だったのです。

 

江戸時代まで、話し言葉と書き言葉は分離された言語でした。

これがなぜ変革される必要があったのか言うと、理由はシンプルで、

表現上の関係でした。

世界の時代は写実主義が流行って来た時代だったのです。

 

現実を舞台に人間や社会を描く文章が必要でした。

そのために「いとあはれ、あなをかし」というような文章だと興ざめしてしまい

読者は感情移入し難くなってしまいます、

 

それで新時代、文学者たちもさらに自由な表現を求めていたのでした。

 

で 二葉亭四迷はどこで この表現方法を知り覚えたのか?? と言う事になります。

 

二葉亭四迷と言う名前はペンネームで 本名は長谷川辰之助と言うのです。

 

彼は尾張藩で鷹狩りの供回り役をつとめる家柄に産まれた立派な武士だったのです。

のちの二葉亭四迷の母は由緒正しい武士の家柄と血筋の人間が、

小説という「軟弱な芸」に没頭することに終生ぐちをこぼしつづけたといいます。

まさか 我が子が文学の変革者になるとは夢にも思っていなかったと思います。

 

明治維新後、四迷は樺太千島交換条約にともなうロシアの動きへの危機感から陸軍士官学校に入り、

さまざまな変遷の後彼は東京外国語学校に入学したのです。

運命とは面白いもので、この時ロシア文学に深く心酔するようになったのです。

しかし学校では伝統を重んじており 改革者の使命はそれで学校を退学して

人生を変える師・坪内逍遥のもとに通うようになったのです。

 

そこで二葉亭四迷は言文一致体をどのように生み出したのでしょう?

 

答えは、翻訳だったのです。

四迷は、まずロシア語の小説を日本語に翻訳していました。

ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を訳す過程でその精神を汲み取り、

近代的かつ西洋的な心情とリズムを日本語に落とし込んでいったのです。

異なる言語を自国語に訳す過程で新しい文体を作る作業は、

最近では村上春樹も行っていますね。

 

言語に長けた二葉亭四迷は離れ業に等しい方法で、

話し言葉と書き言葉の一致した文章「言文一致体」をこの頃創造したのです。

 

そして 彼は 浮雲を世に出すのですが

無名の小説家が簡単に売り出せるわけがありませんね

なぜ 彼は有名になれたのか???

 

の話は

 

明日へ続く、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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