EXECUTIVE BLOG
2024.10.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
箱根駅伝の話しでした。
駅伝一つ紐解いても色々な事が分かって面白いです。
それに加えて 箱根駅伝は 起伏にとんだコースなので
毎年ドラマが生まれるので 人気なのでしょうね。
駅伝には 中継点と言う場所があります 襷をリレーする場所です。
この場所は 勝手に決めているようでは なく
元々宿場があったところの様です。
今回の駅伝の話し 新宿の話しから 宿場町の話になり
宿場を繋いで荷物の受け渡しをしたところから 駅伝が生まれたと言う話でしたね、、、
で
宿場と言えば 東海道五十三次が有名ですが 実は 東海道の終点は
京都ではなく 大阪で 五十七次が本当なのだと言う話で 止まっていました。
そこで 今日は 今一度 この話に戻ります、、、。前と重なる所がありますが
おさらいを含めて、、、
江戸時代の東海道は、江戸から京都までと、教科書やマスコミから刷り込まれまね、。
どうして、京都までなのかと言うと
徳川家康が江戸に幕府を作るまでは、京都が日本の中心だったし、
朝廷はそのまま京都に残ったので、京都との交通は重要だった、と言う事で
これが東海道五十三次なんだと言う事ないなったのですね、
しかし
江戸徳川時代の前の日本の中心は、豊臣秀吉のいた大阪です。江戸時代に移っても、
日本の経済の中心は大阪でした。
京都は大事な場所ですが、大阪は経済的にもっと大事ですよね??
となりますと
街道を整備するのであれば
常識的に考えて、大阪まで整備するはずで 京都で終わらせるわけがないと考えるのが
普通です。
間違っているかもしれませんが調べて見ますと
われわれは 京都が最終と思っていますが
江戸時代の東海道は江戸から大阪までだったようです。
江戸に幕府が出来て、京都まではすぐに開通しましたが、そのあと、直ぐに大阪まで延ばされたのでした。
一度に大阪まで整備しなかったのは、大阪城に、反幕府勢力の豊臣一族関係が残っていたからのようです。。
これらを完全に平定した後に、大阪まで開通させたようです。
旧東海道をよく見てみますと、「江戸防衛」上必要な仕組みなっていますね
例えば
川に橋を架けない、厳しい関所を作る、宿場以外の場所で宿泊禁止がそれです。
ところが、それ以上に東海道には、さらに特別な防衛システムが考えられていたのです。
一般の旅人や庶民には関係ありませんが、大名は京都には入っては駄目だと
言うシステムです。
ご承知の通り
江戸幕府は各地の大名に、参勤交代というのを命じていました。
毎年、大名は江戸に出勤しなくてはならないと言う、非常に迷惑な制度です。
この時の「大名行列」には非常に金がかかりました。
これで有力大名の「資金力」を削ごうという幕府の考えでしたから
大名のとりましては非常に困った制度です、
しかしこの参勤交代のおかげで、沿道は整備されたわけです。
ここで おさらいですが
江戸幕府は 反乱分子が育たないようにあらゆる手だけを考えていました
この参勤交代もそうですが
他に有名なのは武家諸法度 禁中並び公家諸法度があります。
ここを 紐解くと
五十七次と 五十三次の話が理解できてきます
それは????
明日に続く、、、。