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社長&顧問ブログ

2026.9.29

五重塔番外編

高光産業株式会社

妹尾八郎です

 

昨日は、

幸田露伴の『五重塔』についての話しでした。

 

一人の職人が、自分の仕事に誇りを持ち、

五重塔を建てることに心を懸けた物語です。

 

ところが、ここで一つ気になることがあります。

 

露伴が小説の題材にした、

その谷中の五重塔は今どこにあるのでしょうか????。

 

現在、谷中霊園を歩いても、

五重塔そのものを見ることはできません。

残っているのは、

かつてそこに塔があったことを伝える跡地です。

 

では、

いつ建てられ、どのような歴史をたどり、

そして、なぜ消えてしまったのでしょう?????。

 

調べてみると、

五重塔そのものが、一つの長い物語を持っていました。

 

谷中の五重塔は、もともと現在の天王寺、当時の感応寺の境内にありました。

最初の塔が建立されたのは、1644年、正保元年です。

 

今からおよそ380年前。

江戸幕府が始まってまだ四十年ほどしかたっていない時代です。

 

当時の谷中は、今のような住宅地ではありません。

寺院が多く集まり、門前町として発展していった地域でした。

 

国立国会図書館も、

江戸開府後の谷中には多くの寺院が建てられ、

門前町が形成されたと紹介しています。

 

その町の空に、五重塔がそびえていたのです。

 

今のように高層ビルがない時代です。

高さのある五重塔は、はるか遠くからでも見えたことでしょう。

まさに谷中の象徴だったのだと思います。

 

ところが、最初の五重塔は長くは残りませんでした。

 

1772年、明和9年。

目黒行人坂から起きた大火によって、寺の建物とともに焼失します。

 

当時の江戸では火事が多くありました。

木造の建物が密集し、一度大きな火災が起きると

広い範囲が焼けてしまうことがありました。

 

五重塔も、その大火から逃れることはできなかったのです。

 

しかし、

そこで終わりませんでした。

 

焼失から19年後の1791年、寛政3年。

五重塔は再建されます。

 

近江国高島郡、現在の滋賀県の棟梁・八田清兵衛ら48人が

再建に携わったと伝えられています。

 

総ケヤキ造り。高さは約34メートル。

台東区の資料では、当時、関東で最も高い塔だったとされています。

 

この1791年に再建された塔こそが、後に幸田露伴が眺め、

小説『五重塔』の着想を得た塔です。

 

この塔がすごいのは、そこからです。

 

1855年の安政の大地震では、九輪が落ちる被害はあったものの、

塔そのものは倒れませんでした。

 

1868年、上野戦争の際には、天王寺の本堂などが焼けましたが、

五重塔は残りました。

 

そして1923年の関東大震災にも耐えます。

 

さらに、

東京の町が大きな被害を受けた第二次世界大戦の戦災からも生き残りました。

 

江戸。明治。大正。昭和。

時代が変わっても、五重塔は谷中の空に立ち続けていたのです。

考えてみれば、たいへんなことです。

 

地震にも耐えた。戦争にも耐えた。町並みが変わっても残った。

だからこそ、

谷中の人々にとっては単なる古い建築物ではなかったのでしょう。

 

「そこにあって当たり前の景色」になっていたのだと思います。

 

しかし、最後は自然災害ではなかったのです、、、。

その五重塔が突然姿を消したのが、

1957年、昭和32年7月6日。午前3時45分ごろ。

五重塔から火が出ました。

火は瞬く間に塔全体へ広がり、午前5時ごろにはほぼ全焼しました。

 

焼け跡から、男女二人の遺体が発見されました。

 

警視庁と谷中署は、

火災を心中を目的とした放火と判断したと当時の報道は伝えています。

 

地震でもない。戦争でもない。落雷でもない。

人の手によって、長い歴史を持つ塔が焼けてしまったのです。

 

後世の資料では、

焼け跡の遺留品などから、

二人は東京都内の裁縫関係の職場につながりのある

48歳の男性と21歳の女性だったとされています。

 

当時の報道では「心中」「無理心中」などの表現も使われました。

昭和館に残る当時の朝日ニュース映像にも、

「放火」「無理心中の遺体」と記録されています。

 

二人の関係や、なぜ五重塔を場所として選んだのかについては、

後世さまざまな話が伝えられています。

 

しかし、

事件から長い年月がたち、当事者の心の内を正確に知ることはできません。

ですから、

「こういう理由だった」

と簡単に決めつけることはできないと思います。

 

一つ確かなのは、

二人の死とともに、1791年以来166年間立ち続けてきた五重塔も失われた

ということです。

 

谷中の人々には、どれほどの衝撃だったのでしょう??

想像してみます。

昨日までそこにあった五重塔。子どもの頃から見ていた塔。

朝も、夕方も、空を見上げればそこにあった塔。

それが、一晩にしてなくなった。

 

しかも、災害ではなく、人の手によって。

 

当時、幸田露伴の娘で作家の幸田文も焼け跡を訪れています。

彼女は、

父・露伴が「焼け跡ほど惨めなものはない」

と話していたことを思い出したと報じられています。

 

父が小説にした塔。その塔が、娘の時代に焼けてなくなる。

何とも言えない巡り合わせです。

 

五重塔は完全に失われました。

しかし、すべてが消えたわけではありません。

 

焼失後、塔の礎石からは、経筒や舎利容器などが発見されました。

これらは現在、

五重塔再建時の様子を知る貴重な文化財として残されています。

 

そして何より、

五重塔の跡地そのものが残っています。

さらに、

幸田露伴の『五重塔』があります。

写真も残っています。人々の記憶も残っています。

 

つまり、

建物はなくなっても、その存在までなくなるわけではない。

ということです。

 

今回、谷中の五重塔の歴史を調べていて、私は少し考えさせられました。

 

人は、「これはずっとある」と思ってしまいます。

家も。町も。会社も。人との関係も。そして自分自身も。

けれど、本当は永遠に同じ姿で残るものはありません。

 

谷中の五重塔もそうでした。

 

1644年に建てられ、一度焼け、

1791年に再建され、大地震にも耐え、戦争にも耐え、

166年間立ち続けました。

 

それでも、ある朝、なくなりました。

 

だからこそ、

今そこにあるものを、今のうちに大切にしなければならない。

そう思います。

 

昨日のブログで『五重塔』を通して、

「人は何を残すのか」ということを書きました。

 

今回、実際の五重塔の歴史を調べてみると、

その問いがさらに深くなったように思います。

 

建物そのものは残りませんでした。

しかし、

造った人の技術は記録に残った。露伴は小説に残した。

写真を撮った人は姿を残した。研究した人は歴史を残した。

語り継いだ人は記憶を残した。

のです、、、、。

 

一つのものが失われても、

誰かがそれを伝えようとすれば、別の形で次の時代へ残すことができる。

 

それもまた、人間の営みなのだと思います。

 

今、谷中霊園を歩いても、空を見上げたところに五重塔はありません。

しかし、「ここに五重塔があった」

と知って歩けば、心の中には塔を立てることができます。

 

歴史を知るということは、

失われたものを、もう一度心の中によみがえらせることなのかもしれません。

 

そして私は、改めて思います。

今、目の前にあるものも、いつまでもそこにあるとは限らない。

 

だから、

会える人には会う。伝えたいことは伝える。残したいものは残す。

今日できることを、明日へ先送りしない。

 

谷中の空から消えた五重塔は、

そんなことまで私たちに静かに語りかけているような気がします。

 

今日は

五重塔の番外編でした、、、、、

 

明日は

あの人の話に、、、、

続く予定でしたが、

 

ここで アレっと思ったかもしれません、、、

 

そのアレとは????

 

番外編の番外編として

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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