EXECUTIVE BLOG
2024.9.2
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 一人一人の何気ない行為が
それが 歴史の転換期になる行為になるかもしれないと言う話でした。
それから 人との出会いを大切にすると言う
千利休の「一期一会」 と言う言葉は 幕末の大老であった
井伊直弼が広めたと言う話で
その井伊直弼は 安政の大獄と言う 厳しい取り締まりを行ったために
赤鬼と呼ばれていました。
これだけを捉えると 極悪非道の人物の様に見えてしまいますが
直弼は 実は おとなしい人物で しかも 末弟だったと言う事もあり
藩主にはなれないはずの人間でした。
それが 運命のいたずらか 次々に兄たちが亡くなってしまい 藩主に祭り上げられてしまったのです。
それまでの 直弼は 自らの家を 「埋木舎」 と呼んでいたのです。
直弼のその頃の話は 又 別の機会でと言う事で
今日は 赤鬼と呼ばれるきっかけともなった 安政の大獄の話からになります。
安政の大獄とは、江戸幕府大老・井伊直弼が自分の政策に批判的だった公卿、大名、幕臣、志士などを大量に弾圧した事件のことを言います。
そして、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるまでの間に処罰された人々は、
処刑者7名を含む100名以上にのぼります。
この安政の大獄という事件は、日本史上例を見ない大弾圧だったと言われているのです。
なぜ井伊直弼は弾圧を行ったのでしょうか?
それは井伊直弼の2つの政策から生じた問題が原因だったのです。
まず一つ目は、次期将軍を巡る政策での問題でしたが この問題が何かは 又別の機会で
と言う事で
二つ目は、 先日から書いているペリー来航における日米修好通商条約についての政策で安政の大獄はおきたのです。
1853年(嘉永6年)6月3日、ペリー率いる黒船艦隊が浦賀にやってきます。
ペリーの狙いは日本の開国でしたね、
幕府側は将軍の病気を理由に1年の猶予を求め、
ペリーはこれを了承し、1年後に再来航することを告げ、浦賀を離れます。
しかし、1年経たずに半年後、再び日本に来たペリーと開国の方針を固め、全12条の「日米和親条約」を締結してしまったのです。
アメリカからの開国要求の圧力は相当なものだった様で、
これにより黒船来航からわずか半年で、200年続いた徳川幕府による鎖国が破られたのです。
ただ これだけでは
安政の大獄はおこりませんね、
この出来事で 何故 安政の大獄がおきたのか? は
明日へ続く、、。