EXECUTIVE BLOG
2024.10.22
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは
駅伝が生まれたのは1917(大正6)年で
そのきっかけは日本の都が東京に移ってから50年を祝う「東京奠都五十年奉祝博覧会」で、
その宣伝イベントとして考案されたのが、京都から東京まで走るリレー競走でした
そして
この大会は企画当初は「マラソン・リレー」と呼ばれていましたが
もっと日本の大会らしい名前を付けようと、皇學館大学の武田千代三郎館長が
「駅伝」という名前を提案したと言う話でした。
この時、関東組のアンカー・金栗四三選手が上野不忍池のゴールに先に到着したのでした。
この金栗四三氏は後に「マラソンの父」と呼ばれる人物ですね、、
明治24年生まれの彼は、マラソン選手として3度も世界記録を樹立して
第5回オリンピックのストックホルム大会に日本人として初めて出場すると、
第7回アントワープ大会・第8回パリ大会にも出場しました。
この素晴らしい選手でもあった 金栗四三には 面白い記録が残っているのを
ご存知でしょうか?
それは、
ストックホルム大会でマラソンに出場した68人のうち34人が
暑さでリタイアするという過酷なレースだったのです。
この時金栗選手も棄権しましたが、その申告を忘れて日本に帰ったため、
レースを続けているという扱いになっていたのです。
それが面白い事に
54年後の1967年に招待されて改めてゴールしたため、
54年8月6日5時間32分20秒3というマラソンの世界最遅記録になっているのだそうです。
なんでそのような事になったかと言いますと
金栗さんはこのストックホルムオリンピックのレース中に、
日射病で倒れてしまったのです。
この日は40℃まで気温が上がり、参加したランナーの半数がリタイアしていましたし、
更に翌日に死亡したランナーまでいたそうですから、
如何に過酷なマラソンだったかが分かります。
金栗さんは日射病で倒れ、意識不明のまま
近くの農家さんに介抱され、競技が終わった翌日の朝に目覚めたそうです。
そのため、そのまま帰国してしまったのです。
いまではあり得ない話なのでしょうが
マラソン中に消えた日本人ランナーは、オリンピック開催地のスウェーデンではしばらく話題となったそうです。
ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に疾走して行方不明」として扱われていたそうです。
しかし、1967年、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催され、この時に金栗さんが招待されたのでした。
招待された金栗さんは、式典会場の競技場をゆっくりと走り、
ついに用意されていたゴールテープを切ったのです。
この時、
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」
とアナウンスされたそうです。
なんと粋な計らいかと思ってしまいますね、、、
この彼の活動が、その後の箱根駅伝へと伝わっていくのです
その話は 明日へ続く、、。
因みに 金栗さんは熊本県出身で
「体力、気力、努力」という言葉は今も残っています