EXECUTIVE BLOG
2024.7.27
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 浅草神社の話しでした。
今日は その浅草神社の裏手にある
被官神社の話です。
昨日も書きましたが
被官稲荷神社は、浅草神社の境内にある末社で、
新門辰五郎と言う人と関連があります。
安政元年に、新門辰五郎の妻が重病になった際、
山城、現在の京都府南部の事ですが
そこに有る伏見稲荷神社に祈願したところ、奇跡的に病気が全快したとされています。
それで 辰五郎は、感謝の意味を込めて、町の人々が伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請し、被官稲荷神社を創建したのです。
名称の由来は不明とされていますが
「被官」は官を被ることを意味し、就職や出世にご利益があるとされています。
一町民が 由緒ある神社から勧請を行い 更には裏手とは言え
浅草寺 浅草神社と同じ敷地に簡単に神社が建てられる事を不思議に思う方が
多いかと思います。
そんな一町民ができるなら 自分の家にも有名な神社を勧請したいと思ってしまいますよね、、、。
そんな簡単に出来るわけはありません
実は この新門辰五郎さんは とてつも無い方とご存知の方も多いかもしれません、、
この辰五郎さん 侠客だったのです。
狭客とは 現代でいう所のやくざ者の事を美化した言葉ですね、、
中国において義侠心をもって人の窮境を救う武力集団を指す呼称でしたが、
日本では市井無頼の徒「やくざ者」に対する美称として用いられていて、中国のそれとはちょっと意味が違うみたいです。
日本における侠客は、
常軌を逸した行動と伊達者たることを誇りとした室町時代のかぶき者を源とし、
江戸時代には義侠的行為で体制に反抗する者を指す総称となってました。
で 辰五郎さん侠客だったわけですから
そんな人が 神社を勧請するにあたり 江戸幕府が 何故簡単にゆるしたのか????
これは たんなる やくざ者とはわけが違うと思いますね。
一体 辰五郎さんとは 何者で 何をしたのか???
その秘密とは???
は
明日に続く、、。