EXECUTIVE BLOG

社長&顧問ブログ

2022.9.5

保元の乱へ

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 三大怨霊の一人の崇徳天皇の話でした。

江戸時代から今日に至るまで 朝廷が表舞台に出る事が少なかったと思いますが

平安時代までは 朝廷を中心とした争いごとが度々あったようです。

 

崇徳天皇の話も 朝廷の争いごとの話で しかも 天皇だった方が

その後怨霊となると言うのですから

これが 今日であれば 驚きの話ですね

今では 天皇は国民の象徴ですし 一番世界平和を願われている方ですから

かつて 怨霊となって人々を苦しめた事があったとは驚きです

さらに驚く事に 散々怨霊と言われていた人物が その後神として

祀られるのですから 一体どういうことかと思ってしまいます。

 

昨日書いたように 崇徳天皇には 何ら落ち度はないのにも関わらず

父親の嫉妬に巻き込まれて やがて その事が原因で

崇徳天皇が 朝廷に対して 恨みを抱く事になるのです。

 

そして 今日は その続きとなります。

 

崇徳帝の弟の後白河帝が天皇になる事から

長く苦しい崇徳帝と後白河帝の確執と戦いが始まったのです。

ただの兄弟喧嘩ですまなかったのは、

ここに藤原氏同士の争いや、平氏と源氏の中での確執も関係したからなのです。

朝廷を利用しようとするそれぞれの思惑が複雑に絡み合い、

それがやがて「保元の乱」という朝廷全体を巻き込んだ内乱へと進んで行ってしまうのです。

 

この保元の乱は

1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、

朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変の事を指します。

崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流されたのです。

 

この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、

武士の存在感が増し、後の江戸時代まで続く約700年に渡る武家政権へのきっかけの一つとなったと言われています。

 

結局、崇徳帝側は敗北し、讃岐へと流される事になってしまったのですが

この地で崇徳帝は京への帰還を願い、

また亡き父・鳥羽帝へ別れの挨拶もさせてもらえなかった悲しみも抱え、

自らの血で写経したとも言われている大乗経を

京の寺へ納めてほしいと朝廷に送ったのですが、

後白河帝は「呪詛が込められているかも」とそのまま突き返してしまったのです。

この写本を戻された瞬間から崇徳帝は怨霊への道を歩み始めたと言われています。

 

そこまで 自分を追い込むのかと怒った崇徳帝は

その後どうなるのか???

 

それは

 

明日に続く、、、、。

 

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

次の記事へ
前の記事へ