EXECUTIVE BLOG
2025.2.11
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは もしも話で
我が福岡藩が 幕末に活躍していれば 薩長の独占を許さず
その後の日本の行く末も大きく変わったのではないか? と大それた話でした。
しかし 実際は 福岡藩は 新政府から冷遇されていたのです
その訳とは??? が今日の話になります
幕末、日本各地の藩は財政難に苦しんでいました。
特に福岡藩は、軍備増強や政治改革の資金を確保するため、
あとうことか、苦肉の策として「贋金(偽札)」を作るという手段に出たのです。
この行為は明治政府に発覚し、
結果として福岡藩は新政府から冷遇される要因の一つとなってしまったのです。
ではなぜ福岡藩は偽札を作ったのか?ですが、、、
1868年(慶応4年/明治元年)ごろ、福岡藩は財政再建のために贋金作りを始めました。
具体的には、幕府の発行する小判を模倣し、粗悪な金貨を鋳造して市場に流通させることで利益を得ようとしたのです。
当時、日本では貨幣の信用が重要視されており、貨幣偽造は国家の信用を揺るがす重大犯罪とされていました。
にもかかわらず福岡藩がこの手段に踏み切ったのは、それほど財政が逼迫していた証拠ともいえるのです。
この贋金製造の主導者として挙げられるのは、福岡藩の財政担当者や鋳造技術者たちです。特に、当時の福岡藩の藩政を主導していた藩士や重臣たちが関与していた可能性が高いとされています。
有力な人物として名前が挙がるのは、加藤司書 という藩の重臣です。
加藤司書は福岡藩の財政改革を進めていた人物であり、財政難を打開するために贋金鋳造を容認、または指示したと考えられている人物です。
さらに、福岡藩には幕府の貨幣鋳造に関わった職人たちがいたため、
彼らの技術が贋金作りに利用されたとも言われているのです。
藩の上層部が直接関与したかどうかは不明ですが、
藩内の財政担当者たちの主導で行われたことは確かだと言えると考えらます。
やがて
福岡藩の贋金製造が明治政府に発覚すると、
これは国家の信用を損なう行為として厳しく追及されました。
さらに、福岡藩は倒幕運動に積極的でなかったため、
新政府内での評価は低く、政治的にも冷遇される結果となったのです。
特に薩摩藩や長州藩のように倒幕で活躍した藩が明治政府の中枢を占める中で、
福岡藩は主要な役職を得ることができませんでした。
その背景には、この贋金事件による信用低下が影響していた可能性があるのです。
明治新政府は貨幣制度の統一を進める中で、福岡藩の贋金問題を厳しく取り締まりました。その結果、福岡藩の財政はさらに悪化し、最終的に1871年(明治4年)の廃藩置県により、福岡藩は正式に消滅しましたのです。
この事件は、幕末の混乱期における地方藩の苦悩と、明治政府による権力の集中を象徴する出来事だったといえるのだと思います。。
この一連の出来事は、幕末から明治にかけての日本の政治・経済の変動を示す興味深い事例として、今も語り継がれているのです。
11日は
建国記念の日でしたね、、
明日は
明日から その話題になるか????
は
続く、、。