
EXECUTIVE BLOG
2026.1.21
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは
福岡県八女出身の ダニエルイノウエの話しでした、、。
ハワイの日系社会は、広島や山口など瀬戸内地方の移民によって形成された、
という語られ方をされることが多くあります。
しかし、その土台を静かに、そして確実に支えていたのが、
福岡県、なかでも八女地方からの移民でした。
八女は筑後平野の南部に広がる農村地帯で、古くから米作りや茶の生産を基盤とし、
勤勉さと我慢強さを生活の美徳としてきた土地です。
華やかさはなくとも、地に足のついた生き方を重んじる気風が、
移民という選択を後押ししました。
明治後期から大正にかけて、八女からハワイへ渡った人々の多くは、
家族や村を背負っていました。
彼らにとって移民とは、夢を追う旅ではなく、「
生活をつなぐための決断」でした。
日本の農村では土地は限られ、人口は増え、若者が働く場は少なくなっていました。
ハワイ行きは、厳しい現実から逃れるためではなく、
家族を守るための責任ある選択だったのです。
ハワイ到着後、八女出身の移民たちは
主にサトウキビやパイナップルのプランテーションで働きました。
強烈な日差しの下での重労働、低賃金、言葉の壁。
決して恵まれた環境ではありませんでしたが、彼らは耐えました。
八女で身につけた農作業の経験、体力、
そして「与えられた役目を黙々と果たす姿勢」が、
異国の地での生存力となったからです。
彼らの特徴は、個で生きようとしなかったことでした。
八女出身者は、
同郷の縁を大切にし、住居や仕事の情報を共有し、互いに助け合いました。
病人が出れば看病し、困窮する家族があれば皆で支える。
こうした小さな共同体の積み重ねが、ハワイ日系社会の原型となっていきます。
これは単なる助け合いではなく、
「村の延長としての社会」を異国に再構築する試みでもありました。
家庭では、日本語とともに価値観が伝えられました。
働くことを恥じないこと、約束を守ること、年長者を敬うこと。
八女の農村で当たり前とされてきた倫理観は、
子どもたちに自然と受け継がれていきます。
その結果、
日系人はハワイ社会の中で「信用できる人々」として認識されるようになります。
商業、農業、地域運営の現場で、日系人が重要な役割を担うようになった背景には、
こうした信頼の蓄積がありました。
しかし、第二次世界大戦はその流れを断ち切ります。
真珠湾攻撃後、
日系人は一転して疑いの目で見られ、忠誠心を問われる存在となりました。
多くの一世は沈黙を強いられ、二世は自らの立場を行動で示すことを迫られます。
このとき、八女移民が家庭で伝えてきた価値観が、再び姿を現します。
「受けた恩は返す」「逃げずに役目を果たす」。
その考え方は、日系二世が米軍に志願し、
危険な任務に就く決断を支える精神的な基盤となりました。
戦後、ハワイの日系社会は再建の道を歩みます。
農業だけでなく、商業、教育、政治、メディアの分野へと進出する人々が現れました。
その中心にいたのが、移民一世の苦労を身近で見て育った二世、三世です。
彼らは、先祖が築いた「信用」と「共同体意識」を武器に、
社会の中枢へと入っていきました。
ダニエル・K・イノウエのような政治家や、
古谷昇のようにメディアを通じて日系社会を支えた人物の背景にも、
八女を含む農村移民の価値観が流れています。
八女移民とハワイ日系社会の関係を見つめ直すと、そこには派手な成功物語はありません。あるのは、名も残らない人々が、日々の生活を積み重ねてきた歴史です。
しかし、その静かな歩みこそが、ハワイの日系社会を揺るぎないものにしました。
村を離れても村の心を失わなかったこと。
それが、八女移民がハワイに残した最大の遺産だったのです。
今日、ハワイで日本語が自然に聞こえ、
日系人が社会の重要な役割を担っている背景には、
こうした無数の移民の人生があります。
八女という一地方から始まった移動の歴史は、
やがてハワイ全体の歴史と溶け合いました。
その事実を知るとき、移民史は過去の出来事ではなく、
今につながる「生き方の記録」として、私たちの前に立ち上がってきます。