EXECUTIVE BLOG
2025.1.24
高光産業株式会社 妹尾八郎です。
昨日からの続きです。
昨日までは キング牧師の話しでした。
過去において アメリカでは黒人差別があった時代に
勇敢に立ち向かい 黒人の地位向上のために頑張った方だったと言う事で
多くの人に尊敬されています。
今日は もう一人アメリカで 尊敬されている人の話になります。
ホノルル国際空港は、ハワイ州の玄関口として長年親しまれてきた空港でだったのはご存知かと思います。
しかし、2017年にその名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に変更された事をご存知の方は行かれた方以外はご存知でないかもしれませんね。
この変更には、ハワイが誇る偉大なリーダー、ダニエル・K・イノウエ氏への敬意が込められているのです。
何故 ホノルル国際空港がダニエルイノウエ空港に名称変更になったのか??
と言いますと、、、、 の話しです。
その前に ダニエルイノウエとは???ですが
ダニエル・イノウエは、ハワイ・ホノルルで日本からの移民の子として生まれました。
彼の家族は、厳しい環境の中でも教育と勤勉を大切にしており、
幼少期から勤労と学問の重要性を学んだ方です。
このイノウエさんのお父さんですが
城井カンと言われる方で、 我が福岡県八女市で生まれたのです。
この地域は、日本の九州地方に位置し、豊かな自然と農業を中心とした生活で知られる場所です。
彼は ハワイに移民して イノウエと姓を変えたそうです、、。
出身地の福岡県の八女市は、古くからお茶の生産で有名な地域で、
広大な茶畑が広がる美しい田園風景を持っています。
しかし、19世紀末から20世紀初頭の八女では、農業経済の低迷や土地不足が深刻な問題となっていました。
農村部では、大規模な土地を持たない農民は貧しい生活を余儀なくされていました。
労働力が過剰であり、家族を養うための収入を得るのが困難でした。
城井家も、これらの経済的な困難に直面し、より良い生活を求めて新天地での挑戦を決断したと考えられています。
1885年頃には、日米両政府間で公式にハワイへの移民が開始され、多くの日本人が契約労働者として渡航しました。
移民者にとってのハワイ
ハワイでは、日本国内での生活に比べて高い賃金が支払われると宣伝されており
多くの移民は、一時的に働いて日本に戻るつもりでしたが、
結果としてハワイに定住する人々も多くいたのです。
城井カンは、ハワイに移住した後、サトウキビプランテーションで働き始めました。
過酷な労働環境ではありましたが、彼は家族を支えるために懸命に働き、
子どもたちに教育の機会を与えることを最優先としていました。
家族への価値観の影響 城井カンの努力と教育重視のこの姿勢が、
ダニエル・イノウエの人生に大きな影響を与える事になるのです。
カンは、子どもたちに「努力を惜しまず、学ぶことの重要性」を伝え、
これがダニエル・イノウエの成功の礎となっていくのです。
因みに
ダニエル・イノウエの父親の名前は、井上カンとハワイでの英語表記になっていますが
井上嘉南だったのが、ハワイに移住した際に英語表記として「Kana Inouye」
または「Kan Inouye」と記録されたことから イノウエカン と言われているようです。
八女市からハワイへの移民の物語は他にも沢山ありますが、
困難を乗り越え未来を切り開こうとする人々の希望と努力の象徴の物語です。
この移民の歴史に触れることで、
私たちも新たな視点と勇気を得ることができたと感じています。
明日は
この父親に育てられた 英雄ダニエルイノウエの話に
続く、、、。