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社長&顧問ブログ

2024.2.26

六大学野球は当初四校から?

 

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 六大学野球から東都大学野球の話しでした。

 

六大学野球は 当初は近い大学同士5校で対抗戦で行っていましたが

六校にしなければと言う事で 最後に東京大学が加わる事になりました

 

私は サッカーよりは野球が好きで 野球の試合はよく見ます。

慶早戦は 大学に入学した時は ほぼ必須で この時は学校も休講だった気がします。

 

昨日までの話しのなかで 天皇杯が授与されるのは プロ野球でも 高校野球の甲子園大会でもなく また 全日本野球大会でもなく 六大学の優勝チームに授与されるのです。

 

この辺りの話は 又後日と言う事で

 

東京六大学野球は 当初 早稲田 慶応 明治の三校でスタートしその後、

法政大学が加盟して4校になりました。

 

その後 立教大学が加盟するのですが、

当時の大学野球界の状況からすると、立教よりも入るのがふさわしい強豪校は他にもあったのです。

それが、学習院、中央、国学院、明治学院、青山学院、日大、専修でした。

 

それが、どうして立教になったのかといえば、

そこにはさまざまな思惑が絡み合い、それぞれの学校が排除される理由が存在したからなのです。

 

青山学院大学は今では東都大学野球でも強豪校ですし当時も強いチームでした。

それが何故加盟できなかったと言いますと、

青山学院と早稲田と古くから交流があり、

早慶戦ともなると早稲田の応援席には多くの青学の学生が紛れ込んでいたというのです。

これに対して明治学院大学は白金に学校があったことで、

そこからほど近い高輪の慶應と仲がよかったのです。

そして、早慶戦になると、多くの明治学院の学生が慶應の応援に力を入れていたというのです。

 

この時期 丁度早慶が揉めていた事もあり両校の対戦がない事があったそうで、

そこへ青学、明学が加われば早慶の関係がさらに悪化し、

あるいは新たな遺恨が生まれてしまうかもしれないと言う懸念から

両校の加入は見送られたと言うのです。

 

では伝統もあり皇室色が色濃い学習院はどうかと言いますと、

早慶明法の「四大学リーグ」のころはまだ東京四大学とは呼ばれてませんでしたが、

東京を舞台にしたリーグであり、リーグを盛り上げるためには東京の学校でなければならないという“暗黙の了解”のようなものがあったようです。

当時はまだ東京都ではなく東京府でしたが、

「学習院は京都から来た学校、東京の学校ではない」という意識が強かった。

そのため学習院の加盟に難色が示されたというのです。

 

いやそんな事はない 学習院は 今上天皇のご出身でもあり 目白にある事は

広く知られていますね

それが 何故京都からきた学校と言われたかに疑問を感じる方もいるかもしれんません

 

何故学習院が京都から来た学校といわれたのか??

他に 中央大学なども候補から外されたのか????

 

の話は

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

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