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社長&顧問ブログ

2025.2.20

冨田メモ

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは 靖国神社にA級戦犯が合祀された話でした。

本日は この件での当時の政府の対応などについての話に進みます、、、。

 

靖国神社は、日本の戦没者を祀る神社として1869年に創建されました。

しかし、1978年に戦争指導者とされた「A級戦犯」が合祀されたことが、

国内外で大きな議論を巻き起こしました。

その影響で、昭和天皇は靖国神社への参拝を取り止めることになったのです。

 

本日はA級戦犯の合祀に関する政府の対応と、昭和天皇の靖国参拝取り止めの経緯についてです、、。。。

 

靖国神社における合祀の決定は、政府ではなく靖国神社自身が行ったのです。

靖国神社は一宗教法人であり、国家の管理下にはないため、

政府が直接「合祀をやめろ」と指示する権限が無かったと言う事なんです。

 

また、1970年代の日本政府は

戦争の記憶をどう扱うかについて慎重な姿勢を取っていました。

当時の首相・福田赳夫は、

靖国神社をめぐる問題に関して明確な介入を避ける立場を取っており、

「政治問題化させたくない」という意図がありました。

さらに、戦後の「戦犯」への評価は時代とともに変化しており、

国内には「戦犯も戦争の犠牲者であり、英霊として祀るべきだ」

という意見も存在しました。

 

実際、靖国神社がA級戦犯の合祀を決定した際も、政府は明確に反対する姿勢を見せず、

静観する形をとったのでした。

その結果、

東条英機元首相を含む14名のA級戦犯が1978年に合祀されたと言う事になるのです。

 

一方昭和天皇はどうしたかと言いますと

昭和天皇は戦後も靖国神社に参拝していました。

実際、戦後の日本の安定を願う気持ちから、

1952年、1954年、1957年、1965年、1969年、1975年と計6回参拝していました。

しかし、

1978年のA級戦犯合祀を境に、昭和天皇は靖国神社に足を運ばなくなったのですよ。

 

この理由が明らかになったのが、

2006年に発見された「冨田メモ」から判明しました。

これは、昭和天皇の側近であった宮内庁長官・冨田朝彦氏が、

昭和天皇の発言をメモしたもので、このメモに理由が明かされていました。

 

メモの中には次のような内容が記されていました。

 

「私は、あのA級戦犯が合祀されてから靖国には行っていない。だから私の気持ちは分かるだろう。松平(靖国神社の元宮司)は慎重に対応していたが、松平が亡くなった後、なぜあのようなことになったのか…」

 

昭和天皇は、それまで靖国神社の宮司であった松平永芳が慎重な姿勢を取っていたことを評価していました。

しかし、

彼が亡くなった後にA級戦犯の合祀が進められたことに強い不満を持っていたことが、

このメモから分かります。

つまり、昭和天皇はA級戦犯の合祀に明確な反対意志を持ち、

それが靖国参拝取り止めの理由となったのです。

 

靖国神社のA級戦犯合祀問題は、現在も国内外で議論が続いています。

特に中国や韓国は、戦争指導者を戦没者として祀ることに強く反発し、

日本の首相や閣僚が靖国神社を参拝するたびに外交問題に発展することが多くあります。

 

また、国内でも靖国神社参拝をめぐる意見は分かれており、

「戦争で亡くなったすべての人々を慰霊する場」と考える立場と、

「戦争指導者と一般の戦死者を同列に扱うべきではない」

とする立場が対立しています。

 

昭和天皇の靖国参拝取り止めは、単なる個人の意志ではなく、

戦後日本の歴史認識と戦争責任に関する大きな問題を象徴していると言えるのではと思います。

 

では 天皇のお気持ちを察した 当時の松平宮司は 戦犯の合祀に踏み切らなかったのに

何故 その次の宮司は 合祀に踏み切ったのか???

天皇の意思に反する行為は何故????

そこには?????????? 深い訳があったのか??????

 

は 明日へ続く、、、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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