EXECUTIVE BLOG
2024.8.4
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 江戸は火事が多かった事から 今で言う所の
消防署の役目を作らなければと言う事で 幕府が動いた話でしたが
最初はそれが上手く機能しなっかったのですが
加賀藩が独自で構成した 加賀鳶と言う私設消防隊が活躍したと言う話でした。
当時の法被姿もカッコ良かったようで 庶民の憧れの集団だったようです。
おそろいのユニフォームを着るとカッコよく見えますし
それを調達できたのも 加賀藩だからこそだったのではと思います。
加賀鳶は、もともとは、江戸は本郷にあった加賀前田藩の江戸上藩邸が召抱えた
『大名火消し』でしたが、自邸はもちろん、周辺の町や湯島の聖堂の火消しにも
出動していたのです。
『絵本江戸風俗往来』と言う本にによると、
加賀鳶の採用基準は、
「身長六尺三寸以上」「顔色たくましく、力量すぐれし者を選びて鳶とす」
と書いてあるのです。
「六尺三寸」というのは身長190cmぐらいになりますね、
男性の平均身長が150cmという江戸時代において、現代の日本人男性でもなかなかいない「身長190cm以上」という厳しい条件があったのですよ、
加えて「顔色たくましく」「力量も優れた者」とありますから、
加賀鳶がいかに寄りすぐりのハイスペック集団だという事になります。
またその姿格好も、「五尺ほどの鳶口」を持ち、
「雲に大稲妻の色刺し絆纏」の長半纏、その上に火事装束の「鼠色の革羽織」、
髪型は形の良い「加賀鳶髷」、歩く姿は「六方振り」と言う事でしたから、
まるで、歌舞伎に出てくる弁慶のような堂々たる出で立ちで江戸の町を闊歩していた事になります。
更に加えて、加賀は百万石でした。
当時では準御三家としての家格の高さがあったと言う背景もあり、
加賀鳶は、現代の私達には想像も出来ないほどの江戸の大スターとして扱われていて
庶民の憧れだったことには間違いありませんね。
この『加賀鳶』の勇姿は歌川豊国や歌川国芳の浮世絵にも描かれいます。
また明治期に入ってからも河竹黙阿弥によって歌舞伎の演目『盲長屋梅加賀鳶』にもなっっています。
この加賀鳶も、明治期に入ると幕藩体制と共に消滅してしまったのです。
しかし前田家は、加賀鳶をお膝元の金沢に呼び寄せ、藩の火消し役として配置して
加賀鳶はその伝統と技を後の金沢市消防団に伝えたのです。
現在も金沢市消防団の『加賀とびはしご登り保存会』によって、
江戸時代の加賀鳶の伝統と技が受け継がれており、
お正月の出初式や、毎年6月に行われる『金沢百万石まつり』などで、その勇姿を見ることが出来るのですよ
一応私は これでも 石川観光大使を仰せつかっておりますので
ちょっと 加賀鳶の宣伝をさせて頂きました。
では
話しは 戻って
江戸はその後 どのような火消体制を作っていって
幕末の新門辰五郎へと結びつくのか?????
は
明日に続く、、、。