
EXECUTIVE BLOG
2025.6.16
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日迄は 足利尊氏は 英雄だったのか?悪役だったのか??
の話しでした。
今日は 南北に分けられた皇室の思いは如何なものだったのか??
の話に進みます。
南北朝時代――それは、日本の歴史の中でも、最も痛ましく、複雑で、人の心の奥底を深く問うような時代でした。
建武の新政が挫折し、後醍醐天皇と足利尊氏が対立したことから、
日本には「南朝」と「北朝」、二つの天皇が並び立つ異例の時代が生まれます。
しかし、この表面上の「二重王朝」体制の背後には、
それぞれの天皇と、それを支えた貴族たちの、苦しみや葛藤が深く横たわっていたのです。
後醍醐天皇は、理想に燃える人物でした。
自らの信念に従い、鎌倉幕府を倒し、天皇による政治、つまり「天皇親政」を目指しました。
その理念は、古代の貴族社会を復活させようとするものでしたが、
当時はすでに武士の力が強くなっており、その理想は現実の前に崩れていきました。
やがて、足利尊氏が彼に背き、光明天皇を新たに立てることで、
後醍醐は正統の座を追われます。
それでも、後醍醐天皇は「本当の天皇は自分だ」という強い信念を捨てず、
吉野に朝廷を開き、南朝として独立を保ち続けました。
政治的な敗北を受け入れながらも、天皇としての責任と誇りを捨てることなく、
最後まで自らの使命を貫こうとしたその姿には、深い孤独と、それでも揺るがない精神の力があったことでしょう。
後醍醐にとって「正統」であることは、ただの地位ではありませんでした。
それは、天の意志を受け継ぐ者としての宿命であり、
決して譲ることのできない魂の誓いだったのです。
山深い吉野での暮らしは、理想が現実に打ち砕かれる苦しみの日々だったかもしれません。それでも彼は、武士の力に頼ることなく、皇統の尊厳を守ろうとしたのです。
その姿には、ある種の悲しさとともに、気高い美しさが感じられます。
一方、北朝の光明天皇やその後の天皇たちは、足利政権の支えによって即位した存在でした。自ら望んで天皇になったというよりも、
時代の流れに押し上げられた「政治の中の存在」としての側面が強かったと言えるでしょう。
彼らにとって大切だったのは、国を安定させ、民を守ること。
どちらが正しい天皇かという「正統論」よりも、
混乱の時代をどう治めていくかという現実的な責任が重かったのだと思われます。
その中で、北朝の天皇たちが感じていたであろう、
「自分は本当に認められているのか」という不安や、内に秘めた葛藤もまた、見逃せません。
また、彼らを支えた貴族たち――公家たちの心もまた複雑でした。
本来、多くの貴族は後醍醐の理想に共鳴していたはずです。
しかし、現実として都に残り、北朝に仕えるという選択をした人が多かったのです。
それは裏切りではなく、
「国を安定させるため」、そして「自分や家族の命を守るため」のやむを得ない決断でした。
静かに職務を果たす者もいれば、政治から距離を置き、
文や学問の世界に身を置く者もいました。
彼らはそれぞれのかたちで、朝廷文化の火を絶やさぬよう努力していたのです。
天皇が二人いるという状況は、単に制度の話にとどまりません。
それは、「この国の正しさとは何か」「忠義とは何か」「国家とは誰のためにあるのか」といった、根本的な問いが宙ぶらりんになってしまった状態でもありました。
南朝に殉じた者も、北朝で職務を果たした者も、それぞれが自分の正義を信じて行動していたのです。
そしてその正義は、時に争いを生み、時に涙を流すものでした。
のちに、明治政府が「南朝こそ正統」と定めたことで、形式上の決着はつきました。
けれど、それすらも当時の政治的な事情に基づいた選択だったとも言われています。
南朝でも北朝でも、その時代を生きた天皇や貴族たちの思いや苦悩は、勝ち負けや正しい・間違っているという単純な視点では語れません。
そこには、静かな悲しみと、譲れない信念が確かにあったのです。
南北朝の時代とは、「正しさとは何か」「忠義とは何か」が突きつけられた時代でした。
その問いに苦しみながらも、自らの信じる道を貫こうとした人々の姿は、
現代の私たちにも問いかけているように思えます。
「あなたが信じるその正しさは、誰のためのものであり、何を導こうとしているのか」と。
ここで 興味がまた湧いてくるのは
以後の征夷大将軍の位を出していたのは 北朝派? 南朝派???
だったのか????
又 現代ではどちらが正当となったのか???
その訳は????
の話は????
明日に続く、、、、、。