
EXECUTIVE BLOG
2025.6.18
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは 江戸時代まで北朝が正当だとされていましたが
明治時代になって 突然南朝が正当化されました、、、、
それは何故か???? の話に進みます、、、、。
南北朝時代というのは、日本の歴史の中でもとても特別な時代でした。
天皇が二人存在し、一つの国に二つの朝廷が並び立っていたのです。
後醍醐天皇を中心とした南朝と、足利尊氏がたてた光明天皇の北朝。
その争いは約60年続きましたが、やがて力を持った北朝の流れが残り、
今の皇室へとつながっていきました。
ところが、明治時代になって突然、政府は「本当の正統は南朝です」と発表したのです。
それまで続いてきた北朝系の歴史を覆すようなこの判断には、
当時の明治政府のさまざまな思惑や目的があったのです。
明治維新のあと、新しい日本を作ろうとした明治政府は、
天皇を中心とした政治の仕組み「王政復古」を目指していました。
それは、武士による長い支配から天皇のもとへと政治の力を取り戻す動きでした。
そのとき、
昔の歴史の中で「武士の力に屈せず、自ら政治を行おうとした天皇」が必要になったのです。ちょうどその姿にぴったりだったのが、後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇は、自らの理想を信じて幕府に立ち向かい、
たとえ敗れても諦めずに南朝を続けました。
明治政府の人たちは、その姿に自分たちを重ね、
「自分たちの新しい国づくりもまた、後醍醐天皇の精神を受け継いでいるのだ」
と人々に伝えたかったのです。
つまり、南朝を正統としたのは、ただの歴史の見直しではなく、
自分たちの政治の正しさを支えるための大切な考え方だったのです。
また、明治政府は「天皇はすごい存在なんだ」と国民に強く意識させる必要がありました。
江戸時代まで、天皇は京都にいても政治の力は持っておらず、将軍が中心でした。
そこから「天皇を本当の意味で国の中心にしよう」としたとき、
「この天皇は昔から正しく、強く、立派だった」という物語が必要でした。
そこで南朝の物語がとても役に立ったのです。
特に後醍醐天皇が自分の信念を貫いて戦った姿は、まさに明治の理想と重なりました。
だからこそ、明治政府は南朝を「正統」とすることで、天皇の力を強くしようとしたのです。
もう一つ、大きな理由があります。それは江戸幕府や武士の支配を否定するためです。
北朝というのは、足利尊氏という武士が立てた天皇の流れです。
その北朝が「正しい」となれば、
「武士が天皇を決めてもいいのか」ということになってしまいます。
明治政府は武士による支配を終わらせ、新しい時代を始めたかったのです。
だからこそ、
「武士が立てた北朝は正しくない」「本当の天皇は、武士に屈しなかった南朝だ」
とすることで、これまでの時代と決別することができたのです。
そうすることで、自分たちの新しい政府がいかに正しい道を進んでいるかを、
人々に理解してもらいたかったのです。
さらに、当時の社会の中でも、南朝を大事に思う気持ちが広がっていました。
たとえば幕末に活躍した吉田松陰や水戸学の人たちは、
「本当に正しいのは南朝だ」という考えを広めていました。
そのため、明治政府が南朝を正統だと宣言しても、多くの人が違和感を持たず、
むしろ「やっぱりそうだったのか」と納得しやすかったのです。
こうして、南朝正統論は、政治、歴史、思想、すべての面から見て、
明治政府にとってとても都合のいいものでした。
この考え方は、
やがて明治天皇による「南朝こそ正統である」という公式な詔によって確定されました。
ここで初めて、国として南朝が正式な天皇の系統であると宣言されたのです。
これは歴史的な事実よりも、
「これからの日本はこうあるべきだ」という明治政府の理想が形になった出来事でした。
つまり、南朝正統という考えは、ただ過去を見直したのではなく、
新しい国づくりのために選ばれた、いわば未来のための判断だったのです。
明治政府が南朝を正統とした理由は、いくつもの要素が重なり合っています。
自分たちの政治の正しさを証明したいという思い、
天皇という存在の特別さを国民に伝えたいという願い、
そして江戸時代の古い体制からの脱却。
それらすべてが合わさって、「南朝こそ正統である」という結論につながったのです。
その裏には、単なる歴史の見直しでは語りつくせない、
明治という新しい時代を支えるための深い思いがあったことを、
私たちは忘れてはいけませんね。
明治政府の思惑が分かったところで
皇居前にあるその銅像がきになります
それは????
の話は
明日へ続く、、、、、。