EXECUTIVE BLOG
2024.2.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 広島原爆投下の話で
エノラゲイ号は 一旦 京都へ向かうと見せかけて 一転して急遽 広島に
戻り そこで原爆を落としたと言う話でした。
空襲警報がなって 市民の多くが防空壕に退避してしまうと
原爆の威力の検証ができないと考えての行動です。
明らかに 人体実験をしたかったと言う事が推測されますね
そして 長崎にも落とされますが この時の原爆の種類は 広島型と違うのです。
単に戦争終結を早めたかったと言うのであれば 一発だけでも十分だったでしょうし
なぜ ここで種類の違う原爆を使用したのか??? が解せません。
カーター・クラーク准将と言う人物は
「我々は、ますます多くの商船を沈め、日本人をますますひどい飢餓に陥れていた。
このことだけでも、彼らに卑屈な屈服を強いることができた。
我々は(原爆投下)を行う必要がなかった。
我々は、それを行う必要がないということを知っていた。
それでも、我々は日本人を2発の原爆の実験のために利用した。」
と後に語っているのです。
これを聞いてどう思うでしょうか??
広島にはウラン235型、長崎にはプルトニウム239型と言う
タイプの違う原爆を落としたのです。
タイプの異なる原爆を落としたのは、
2種類の原爆が兵器としての殺傷能力や都市に与える被害の効果を見るためだったとしか
考えられませんね
戦後に進駐してきた米国は、広島と長崎に原爆傷害調査委員会
を設置して放射能の影響調査を始めていました。
そこに生存者を連れて行き、血液を採取し、傷やケロイドの写真、
死亡した被爆者の臓器などを摘出して、様々な調査や記録を行っていましたが、
治療をすることはほとんどなかったと当時の被爆者から聞いた事があります。
更に、日本政府に国際赤十字から医薬品の支援申し出を拒否させ、
治療させることをことごとく妨害していました。
外部から広島や長崎に入ることを禁じ、原爆報道も全て禁止していたのです。
原爆傷害調査委員会が広島と長崎から収集した医学データと
ビキニ環礁での原水爆実験のデータを利用して、爆心周辺で放射線から身を守るには
どのような服装にすればよいかなど米国国防総省が研究していたことが、
米国の文書から確認されています。
広島に原爆が投下されたのは、昭和20年8月6日の8時15分でしたね
この時間は、工場労働者が仕事を始め、子供たちが外に出て遊びに出る時間で、
米軍はそこを狙ったと米空軍史に載っている事が戦後判明しています。
長崎は 昼前でしたが 本来は 小倉に落とす予定でしたから
時間も 広島と同じ様に 市民が活動を始める 9時過ぎを狙っていたとしか
思えません。
戦後 この原爆は 何の罪もない一般市民を虐殺したと言う声もあがりましたが
いつの間にか 正当化されてしまっています。
もし これが 京都や 皇居上空で行われていたら
前から書いているように 日本人の敵討ち精神が湧いて来たと思いますが
巧みな情報コントロールにより それが起きないようにした上に
復讐心をも刈り取ってしまったのですから
そう考える なんと計算高い国なのか??? と思ってしまいます。
こういう結果を恐れて
フィリピンから 特攻機が次々に飛び立ったのです。
日本を日本人を守りたい一心での攻撃でした。
このような作戦は 後に非難されますが
だれが どのような考えでこの作戦を編み出したのか????
そして その人はその後、、、、、
の話は
明日に続く、、、。