EXECUTIVE BLOG
2023.9.30
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは江戸時代の話のなっていて
大井川渡の話から 当時の 郵便や物流はどうなっていたのかの話になり
そういえば 昔は交通手段のない中 飛脚と言う制度があったと言う話でした
江戸と大阪を 走るだけで2日で届けたと言うのですから
もし 彼らが現代に生きていたら オリンピック記録が出るような人だったのでは
と思います。
今日は この飛脚の出来た背景の話をと思いましたが
先日 大井川の川渡しの話を書いた時に ふと思った事があります
一般の方は そこで 人足にお金を払って 渡っていたのでしょうが
江戸時代には 参勤交代と言う制度がありましたね
各藩から 江戸へ向けて行進して行くわけです
東日本の各藩は 大井川を渡らずに済みますが 西日本の各藩は あの大所帯で
どのように渡っていたのか? と興味が湧いてきます。
東海道では「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われたように、
橋が架けられていない大井川が大きな難所です。
紀州藩では、箱根と大井川を無事越すと、
その夜の本陣では藩士に祝いの酒が振る舞われたと言うのです。
鳥取藩でも、大井川を無事通過すると早飛脚で知らせて、
江戸藩邸や分家から祝いの書状が届いたというのです。
北陸の加賀藩はほとんど東海道を経由せず、
北国街道から中山道ルートを12泊程度で往復するのを常としていたようです。
また、鳥取藩の場合は中山道を経由していたようですが、
この折の渡川費用の総計は45両余であったが、2年後に東海道を経由したときには133両もかかっていたそうです。
現代のお金に換算してみますと 一両10万円とすると 軽く1000万円を超える大出費だったと言う事になりますね、、、、。
江戸時代中期以降、東海道より中山道を選ぶ大名が増えたそうです。
その背景には、各藩による大河川越えに際して生ずる経済的リスクの回避が大きかったと言われていますが
何故か
幕府は東海道を通るように規制をしていたとかなんですが
それは 何故なんでしょうか?
先日も書きましたが 川渡しで大きな利権が発生していますので
自分達の懐に入るお金が少なくなるからとでも 考えていたのでしょうか?
この辺りも調べて見る必要があるかなと思います
このように どんどん興味が湧いてきますが
参勤交代でもっと面白い話があります
それらは
明日に続く、、、。