EXECUTIVE BLOG
2022.5.26
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 家康が 何故神となって 日光東照宮に祀られるようになったのか?
と言う話から
徳川家を盤石な体制にするためには朝廷に力を持たせない事が必要だと
考えて
禁中並び武家諸法度なる制度を作ったと言う話でした。
「禁中」とは皇族、
「御法度」は法律を指します。
朝廷や公家に対して、主体的な行動を制約し、幕府の支配下に置くための決まりを定めたこの法令は、幕末まで改定されることはありませんでした。
この禁中並公家諸法度は、臨済宗の僧であった以心崇伝が起草したものです。
崇伝は、この法令以外にも、武家諸法度、寺院諸法度の起草にもあたっています。
このように 徳川家安泰の為に色々な手を打って 家康は亡くなりますが
これを さらに強固な体制にしたのが
3代将軍家光ですね
話が ずっと 延び延びになっている 山口と会津の仲の悪さの原因の
家訓を制定した 保科正之は この 家光の腹違いの弟です
家光は 徳川家を盤石なものにするためにどのような制度を作ったのでしょう、、、。
この家光は 参勤交代や キリシタン弾圧で有名ですね
参勤交代の目的は 有力大名の家族を人質にとる事でしたし
雄藩の薩摩藩などは 江戸まで2か月以上かけて来るわけですから
相当なコストが掛かっていました。
しかし そのコストをかける事が目的で これにより各藩が力を付けられないようにしていたのですから
よく考えたシステムだなと思います。
又 キリスタン弾圧に関しても 今考えますと なんと非人道的な事をしたんだと思ってしまいますが
当時のカトリック国の考え方は 先ず 宣教師を送って 思想教育を行い
次にその国を乗っ取ると言うのが常套手段だったわけですから
もし 家光がその事に気が付かづ 放置していたのであれば
きっと 天皇家も続いてなかったと思います。
カトリックからすれば 天皇家は日本の神ですから 完全に異教徒にあるわけです
これを許すはずがないですね
そういう意味では 家光は 日本の救世主だったのかもしれません。
そして家光が将軍就任の時に言ったと言われる名ゼリフ。
「余は生まれながらにして将軍である」
まだ年若い青年が、大勢いる大名の前で堂々とした態度で言ってのけたと言われています。
この台詞や先ほどの政策から力強い将軍を思い浮かべますが、
本当の姿はそうではなかったみたいなのです。
幼少期は病弱で気が弱く、外で遊ぶよりは中で絵を描くことが好きだったそうです。
恥ずかしがり屋で、もごもごと口ごもってしまい、はっきりとなかなか自分の考えをいえない少年時代だったのです。
一方、実の弟は健康で活発で文武両道でしたし
家光は乳母である春日局に育てられたのに対して弟は両親の元で育っていました。
もちろん両親の愛情は弟にばかり注がれ、実母は家光を嫌ってさえいたと言われています。
しかしそれを救ってくれた人がいたのです。
それが祖父である家康ですね、
家康は跡継ぎである家光のことを何かと気にかけてくれ、
家臣の前でもはっきりと
「次の将軍は家光だ!!」と宣言してくれた大恩人だったのです。
それで 自分が亡くなる時には 家康が祀られている 日光東照宮の横に作った
寺に埋葬を希望することになるのです
こんな 家光ですが
実は思いがけない秘密が隠されていいました、、。
その秘密とは?????????
それは、、、、、
明日に続く、、、、。