
EXECUTIVE BLOG
2025.6.23
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日迄は 明治政府が 忠義の鑑と称えられた 楠木正成親子を上手く活用したと言う話でした。
今日はその話しの続きとなります、、、。
明治政府が日本の近代国家建設を進めるにあたり、
中心に据えたのは「天皇を頂点とする中央集権的国家体制」でした。
この新しい国家理念を人々に浸透させ、支配の正当性と精神的支柱を与えるためには
歴史上の人物や思想を活用する必要がありました。
楠木正成や楠木正行の親子を「忠義の象徴」として称え、
皇室への忠誠を国民に植え付けようとしたのと同じように、
吉田松陰という幕末の思想家も、
明治政府にとって極めて都合のよい「精神的資源」として利用された人物でした。
吉田松陰は松下村塾で数多くの門弟を育てた教育者であり、
彼自身の行動や思想には「国家への忠誠」「自己犠牲」「積極的な国政参加」など、
明治国家が国民に望んだ態度や価値観と重なる要素が多くありました。
彼の思想の核にあるのは、天皇を中心とする国家観と、
臣民としての道義的責任を果たす覚悟、
そして西洋列強に対抗するための国力の涵養でした。
松陰は、単なる儒学者ではなく、実際に黒船来航後の国難を憂い、
海外渡航を企てたり、幕府批判で投獄されても
信念を曲げない烈しい気性を持った人物で、
その姿は「忠臣・烈士」として明治政府に理想的な殉教者像を提供したのです。
明治政府はこうした松陰の殉教的な生き方を取り上げ、
教育勅語や修身教科書などで「忠君愛国」の手本として紹介し、
学校教育や軍隊、官吏の養成にも積極的に取り入れていきました。
特に松陰の言葉として広まった
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(真心をもってすれば必ず人は動く)」
などは、忠誠心や努力の精神を奨励する名言として、
戦前の日本社会に深く浸透していきます。
松陰の思想の中でも、特に重視されたのは「一君万民」の理念でした。
これは、天皇を唯一無二の主君と仰ぎ、全国民がそのもとに団結すべきという発想で、
明治政府が目指す国家統合にとって格好の理論的裏付けとなったのです。
また、松陰は民衆に対しても政治参加の必要性を訴えており、
これは後に国民皆兵や教育制度の整備にも繋がっていきます。
つまり、吉田松陰の教えは単なる知識や道徳の教えではなく、
「行動を伴う思想」として評価されたのです。
一方で、明治政府は松陰の思想をすべて採用したわけではありません。
例えば、彼の門下生の中には、
武力による倒幕や尊皇攘夷の思想に突き動かされた過激な行動を取る者も多く、
その結果、テロリズムの温床と見なされることもありました。
明治政府は、そうした松陰の革命的な一面にはあまり触れず、
「忠誠」「教育」「献身」といった都合の良い面だけを強調し、
国家の枠組みの中で松陰像を再構築していったのです。
また、彼の死後に神格化され、山口県萩市の松陰神社に祀られるようになると、
明治政府はこれを国家神道の枠組みの中に組み入れ、
他の忠臣たちと並んで「顕彰」することで、忠義の模範とする動きを強めていきました。
こうした動きは教育現場や地域の神社信仰を通して、
吉田松陰という人物が次第に
「近代日本の精神的支柱」のような扱いを受けるまでに至らせました。
結果として、吉田松陰の思想は、
明治政府が推し進めた「富国強兵」「教育勅語による道徳教育」「国体の本義」
などに合致する部分が多く、
それが彼の教えを政治的・教育的に積極的に利用する背景となったのです。
松陰自身の理想はあくまで
「民の中に真の志士を育て、天下国家を正しい方向に導くこと」
であったかもしれませんが、彼の思想は明治という近代国家形成期において、
国家のイデオロギー形成に大きな影響を与え、
また同時に巧みに編集された形で利用されていったのです。
明治政府は、歴史上の人物を国家の精神的支柱として活用する中で、
楠木正成には忠義を、吉田松陰には志と行動力を象徴させ、
これをもって新しい日本の国民に「こうあるべし」という規範を与えたのでした。
こうした思想の利用は、戦前の日本社会の精神文化に深く根を張ることとなり、
第二次大戦期にはさらに強化され、
国民教育や戦意高揚にまで繋がっていくことになるのです。
明日は 帝国軍部はどのようにこれらの思想を利用したのか????
に続くのか???、、、、。