EXECUTIVE BLOG
2024.12.14
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 国体護持の話しから
天皇主権であっても国民主権であっても 天皇としての国体は維持されていると言う話でした。
平安時代までは 宮中を中心に政治が動いていましたが 武士氏が台頭してからは
明治維新までは、天皇が権力の中心にいる事はなかったと思います。
そもそもこういう「天皇が日本人全体の中心である」という日本の国のあり方はいつからでてきたのでしょうか。
おとなりの中国では何度も王朝が滅びて入れ替わっていますが、
日本では天皇制が大和朝廷からずっと続いています。
王朝が入れ替わるということは、例えば今の天皇陛下をやっつけて、
別の人が天皇になる!と言い出すような状況をいいます。
日本では「実際に権力を持っている人」はどんどん入れ替わりましたが、
「天皇をなくしてしまおう」ということだけは有史以来ずっといわれずにきました。
現在でもそうですね、、
今の日本国憲法では天皇は「象徴天皇制」といわれますが、
そのこと自体、「日本という国は天皇を中心にしてまとまる社会である」と解釈できます。
「国体護持」というと右翼とか戦争を連想してしまいがちですが、
わかりやすくいえば
「天皇がいるというごく自然な国の状態を変えたくない」という考え方なのです。
で 今日の話は、天皇があえて権力を握ろうとしなかった理由に進むのですが、、
戦前の天皇は簡単に言いますと、
「政治については内閣の言うとおりにしか動くことができず、
軍事については陸軍と海軍の言うとおりにしか動けない存在だった」
だと考えれば良いのではと思います。
ただし帝国憲法の文言上では
「天皇が国の主権者」ということになっているわけですから、
天皇陛下が権力を握ろう!という強い気持ちを持てば、
それは可能だったかもしれません。
普通なら権力を握れば好きなように国を動かすことができるのですから、
だれでもそうしようと思いますよね。
しかし、
天皇やその周辺の人たちはそういうことをしませんでした。
なぜならば、天皇が政治に関わって失敗したら、
それは天皇の責任になってしまうからです。
「責任逃れ」をするわけではなく、
天皇は有史以来ずっと続いてきた「天皇制」という仕組みそのものがなくなってしまうことは避けなければならないと常に考られていたと言う事なのでしょう。
それで、昭和天皇も太平洋戦争開戦に対し、「反対である」という意見はもっていましたが、強固に突っぱねることは出来なかったのです。
大日本帝国憲法の下で、
天皇は「君臨すれども統治せず」というイギリスの王室のやり方を真似ていたとされます。
大日本帝国憲法下では天皇は国の主権者のような扱いになっていますが、
実際の運用では内閣の支持なしには何もできない仕組みになっていましたし、
天皇自身もその在り方をあえて受け入れていました。
鎌倉時代から江戸時代まで武士の時代が続きましたが、
天皇はずっと残ることができたのは、
このような天皇の在り方が大きく影響していると言うことだと思います。
天皇は権威だけをもって権力を持とうとしなかった事を
「君臨せずとも統治せず」ということになります。
平安時代は朝廷は優雅に過ごしていた気がしますが
戦国時代などには天皇は忘れ去られたような存在になっていて、
天皇の住まいもボロボロの状態になっていたそうです。
日本という国が「天皇中心」の国ではないかという考え方が強く表にでてきたのは、
江戸時代末期、つまり幕末になってきてからです。
そこで 天皇陛下を神格化しようとする藩が出て来ましたね
早く 西欧化を目指すのは良かったのですが この神格化が日本を過った方向に
進ませてしまったのでは とも考えられます。
その 奥にあるのが
あの鎌倉時代の出来事だったと 私は考えています、、、
その出来事とは?????
に
明日は やっと進めるのか??????