EXECUTIVE BLOG
2024.9.9
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までも井伊直弼ネタが続いていました
なかなか 次の文明開化の話に進む事ができません、、、
今日も もう少し 直弼ネタで、、
所で 桜田門外の変があった 桜田門ですが
今では 警視庁がある前の門です。
ここで 大事件があった事から 後に警視庁にしたのは考えすぎでしょうか???
幕府を倒したあと 薩長が 旧幕府の人達に対して睨みを聞かす意味でこの場所を
選んだのか??? と、、、
で この警視庁が出来るまえに有ったのが 豊後杵築藩邸です。
と言う事は この藩邸に当時いた人たちは 桜田門外の変を目の当たりにしていますね、
当然 事件後 幕府より外部へ一切話をするなとかん口令がしかれますが、
秘密の事を言いたがるのが人間ですよね
きっと ここだけの話と 話をしてる人がいたとしてもおかしくは無いと思います。
1人の江戸の人に伝わってしまえば そこから 又 ここだけの話と言う事で
SNSが無い時代でも あっと言う間に広がったに違いないと思います
それでも 幕府はそれを認めません もちろん彦根藩としても 大老職でもある殿の
首が取られたと認めるわけにはいきません。
井伊直弼の首が置かれた藩は 近江三上藩でした、そこに彦根藩が首の引き取りに行くのですが そこで その首は 井伊直弼のではなく 供侍の首だと言い張るのです。
その時には 噂も広まっていますし 近江三上藩は彦根藩とも近く 直弼の顔は良くしっている間柄なのです。
まあ ここは 忖度して 彦根藩に首を返すのですが 彦根藩はその首を持ち帰り
同体と首とを繋ぎ合わせて 病死したと発表するのです。
これは もちろん幕府公認の下で行われています。
病死となると 各藩から代表が見舞いに訪れます、 もちろん 真相は知った上で
何食わぬ顔で お見舞いをするのですから 心境は如何なものだったのでしょう、、、。
それ以上に心境複雑だったのが この事件の首謀者を出した 水戸藩です。
幕府から水戸藩にも 見舞いに行くように伝達されます。
しかし 復讐心で怒り心頭の彦根藩に出向かなければならないのです。
ここに見舞いに行くと言う事は 死を覚悟していくしかありませんね
もちろん 水戸藩から使者が来たら 斬り殺すとの動きが彦根藩内部でありました。
じっさい 直弼が横たわっている隣の間には 殺気だった藩士が待機していました。
ここへ 水戸藩の使者は 心中複雑だとは言え見舞いをします また 彦根藩も
それを平静を装い受けるのでした、
お家存続の為にはやむなしの行為だったのです。
この後 滋賀県と茨城県との間が 仲が悪かったと言う事をご存知でしょうか?
同じ様な 話で いまだに福島の女性は山口県の男性との結婚は反対されていると
言う話をよく耳にします。
なかなか先に進めませんが 昨日からの続きの 直弼は居合の達人だったのが何故反撃もせず 命を落としたのか??
直弼が無抵抗だったのは昨日書いた「保剣」の心構えからとする説があるのです。
警護人のついた大名(=藩主)が、自ら応戦するのは非常に体裁の悪いことですね。
場合によっては彦根藩自体の名も落としかねません。
そのため直弼はあえて反撃をしなかったと考えられるのです。
保剣の心構えに従い「刀を抜かない」ことで、
真の勝利を得ようとしたと思われるのです。
居合の精神に沿って死を選んだのでしょうか?
それは井伊直弼本人だけが知るところですが
私は 不遇の時代に鍛えた 直弼の心構えがあったのだと
思う説を信じたいと思います。
この事件後 幕府は衰弱して ついに大政奉還から文明開化を迎えると
言う事で
やっと次へ進むことができます、、、
その文明開化ですが
どのような事が変わったのか???????
の話は
明日へ続く、、、。