EXECUTIVE BLOG
2021.12.26
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 明治天皇を祭神とする神社が明治神宮であったことから
大正神宮や 昭和神宮が何故無いのか?? と言う話から
それまでの天皇陛下は神様であったのですが 昭和天皇が「人間宣言」を
行ったと言う話になっていました。
今日は その続きで そもそも 人間であるはずの天皇陛下が 何故
改めて国民に向けて 「人間宣言」を行ったか?についてですが
その前に
明治天皇や 昭和天皇に関しては 日露戦争や 第二次世界大戦の事で
度々 歴史の表舞台にでてきますが
大正天皇に関しましては なかなか表舞台での活躍ぶりが聞こえて来ませんね、
それは 大正天皇が 生まれつき病弱だったことと 天皇即位の期間が15年しか
無かった事に起因するのではとおもいます。
しかし
大正時代と聞くと 大正ロマン とか 大正デモクラシーとかの事が
頭に浮かびます。
では 一体何故 大正時代が 大正ロマンであったり 大正デモクラシーだったのか?
と言うと 答えられる方は少ないのではと思います。
大正時代とは、1912年から1926年までの約14年と5ヶ月間を指します。
大正の前後にある明治と昭和はそれよりも長く、明治は45年、昭和に至っては64年までありました。
それらと比べれば大正は短いのですが、
「大正ロマン」という言葉があることからもわかる通り、
大正という時代に憧憬ともいえる感情を持つ人が多いのも事実です。
そうなったのも、
大正が明治と昭和の狭間にあることが理由の1つであるともいえるようです。
それで 大正デモクラシーとは
明治の末期から大正年間にかけて、民主主義的な思想が高まりを見せたのです。
この頃吉野作造が民本主義を唱えるなど、
市民が個人の権利や自由を主張するようになってきたのです。
このような事が明治では出来なくて 大正時代に入り民主主義の基礎が出来た事から
大正デモクラシーと言われているようです。
それからもう一つの 大正ロマンとは ですが
大正ロマンの定義としては、
「大正時代の雰囲気を伝える独特の文化や芸術」といった表現となります。
しかし、大正時代に生み出されたものがすべて大正ロマンを名乗れるというわけではないそうです。
大正ロマン最大の特徴は、
日本の伝統文化と西洋の文化が入り混じっているということのようです。
明治時代になり日本へもたらされた西洋の芸術や生活様式が、
大正時代になって日本の文化と融合し、日本独特の文化となって結実したのです。
特に建築や家具、服装などで和と洋2つの特徴を巧みに取り入られているようです。
「ロマン」という言葉を用いていることもあり、大正ロマンに華やかな印象を持ってしまいますね。
実際に、女性のパーマヘアが流行したのは大正時代からで、
童謡・唱歌や流行歌が街に流れるようになったのも大正になってからだそうです。
劇団藝術座や後の宝塚歌劇団ができたのも大正時代、
『キネマ旬報』の創刊も大正時代なんです。
現代でも大正ロマンの雰囲気を感じられるものに建築があります。
東京の旧岩崎邸庭園や大阪の大阪府立中之島図書館などが大正ロマンの影響が顕著に現れているものとして有名です。
大正時代の建物は、和と洋が入り混じっているというのが最大の特徴だそうです。
その一番象徴的な建物が 東京駅だそうです。
このように調べてみますと次々に興味が湧いてきますね
他には 文化はどんなものがあるのか??とか
興味が尽きませんが
今回の 大正デモクラシーと 大正ロマンの話は ここまでにします
しかし 期間が短かったせいか 何か哀愁を感じてしまいますね、
明日は
いよいよ
因縁の 12月23日の隠された秘密に戻れるのか????
その内容とは?????
それは
明日に続く、、、。