EXECUTIVE BLOG
2022.2.21
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです。
昨日までは 近代日本の転換期が
明治5年ではなかったのでは? と言う話でした。
大きく変わった中でも 庶民が一番困惑したのが
暦が 太陰暦から太陽暦に変わった事ではと思います。
西欧の文化に追いつく事が目的だとは思いますが
太陰暦から太陽暦に変更するのを急いだのにはほかにも
理由があったのです。
明治5年11月、日本でそれまで使用されていた暦を
世界で主流となっていた太陽暦に変更するという発表が、
政府によって突然なされました。
「太陰暦」と「太陽暦」とは、どちらも暦の種類ですが、
それぞれ「暦を決めるために基準としているもの」が違っています。
月を基準にした暦が「太陰暦」で、太陽を基準にしたものが「太陽暦」です。
日本の旧暦で使用されていた太陰暦は、
月が満月から次の満月になるまでを1ヶ月と数える暦です。
月を見れば今日が何日か分かる太陰暦は、分かりやすくて便利だったのですが、
1ヶ月が29.53日という中途半端な日数になり、
暦と季節がずれていくという重大な欠点がありました。
当時、この不都合は
ひと月が29日と30日の月を作ることによって解決していました。
春夏秋冬という季節は、太陽と地球の位置関係で決まっています。
太陰暦では1年が29.53日×12で354日となり、
暦が毎年11日ずつずれていくため、やがては暦と季節が逆転してしまいます。
そこで日本では「太陰暦」という暦が長い間使用されていました。
これは太陰暦の暦がズレるデメリットをカバーするために、
数年に1度「閏(うるう)月」を入れて、1年を13ヶ月にする暦だったのです。
実はこの「閏月」、
官吏(官僚)に給料を支払う立場の国にとっては深刻な問題だったのです。
暦が切り替えられる前年の明治4年9月に、
官吏の給料が「年俸制」から「月給制」に変更されたことが
財政に大打撃となってしまう事になるのです。
通常は年に12ヶ月分払う月給を、
閏月のある年は1ヶ月多い13ヶ月分支払わなければならないわけですから、
政府が悩ましく思うのは当然です。
暦の変更が突然発表された明治5年は、その閏月の入る閏年が、
まさに来年に迫った年だったからです。
この太陽暦を採用したのは、早稲田大学を創設した大隈重信で、
佐賀藩士であった重信は幕末から明治維新に大いに関わることになりましたが
太陽暦が太陰歴よりも正確で季節のずれがないという特徴だけではなく、
経済上の理由で太陽暦採用を急いだと言うのです。
表向きは 西欧化を進めると言う事でしたが
実は 財政の為に急いだと言うのが太陽暦採用を急いだと言うのですが
大隈重信は よく思いついたものだと感心してしまいますね。
この大隈重信は その後2度も総理大臣を務めるのですが
それ以上に有名なのは 早稲田大学の創立者である事ですね
早稲田大学の前身は、明治15年10月21日に創設した「東京専門学校」でした。
当初は、創立者である大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあり、
校舎が同郡戸塚村にあったことから、
「早稲田学校」「戸塚学校」と呼ばれていたのですが、
最終的には「東京専門学校」と名付けられたのだそうです。
しかし、程なく専門学校の別名として
「早稲田学校」と呼ばれることが多くなり、
専門学校から大学への昇格したことを機会として早稲田の地名をとり
「早稲田大学」と改称されたそうなのです。
で
この大隈重信 その後テロに遭う事になり 右足が吹き飛ばされると言う
大けがをしてしまいます。
しかし その右足が 今でも
ある所にあるのです、、、、、
この右足はどこにあるのか?????
何故 彼は右足を失ったのか???????
それは
明日に続く、、、、。