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社長&顧問ブログ

2020.9.24

大黒屋光太夫が居なければ???

 

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは ペリーからの話で

色んな歴史上の人物が登場し

その方々の目に見えない繋がりが

江戸末期の危機を救うと言う話になり

 

そこに台風の話まで 出て来ました。

 

しかし ペリーが産まれる前の日本での台風が

その後 ペリーが日本に興味を持つ意味のある台風であったことなど

誰も気が付かない事でした。

 

 

では この台風が 何故重要な意味を持っていたのか??

私達が知らないだけで1782年の台風でも 大きな被害が出たのでしょうが

その中に その後の日本を守ることになる人が居たのです

 

その人が 今日の主人公となります

 

その人の名前は

大黒屋光太夫と言う人です。

 

彼は1751年伊勢亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市)の船宿を営む亀屋四郎治家で誕生しました。

 

光太夫には兄次兵衞と姉の 国、いのがいました。

光太夫は次男で幼名を兵蔵といいました。

 

彼の人生も色々あり 姉の家の養子になり

 

1780年沖船頭に取り立てられ、大黒屋光太夫を名乗ったのです。

 

それから光太夫は船員15名と紀州藩から伴った農民1名の総勢17名で、

神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢白子の浦から江戸へ向けて出航しました。

 

しかし、途中の駿河沖で台風にあい、一行はそのまま約7ヶ月も漂流したのでした。

 

やっとの事でたどり着いた先は、アリョーシャン列島の1つであるアムチトカ島でした。そこで光太夫一行は、日本に帰ることを考え 極寒の地で耐えて生活をしたいたのです

 

 

そこに 又奇跡的な出会いがあり

ロシアの探検家が 彼らを発見するのです

 

当時ロシアは南下政策を考えていた時期で

日本の港もも使いたいと考えていたので、この日本人をつかって

日本への交渉に使えるのではと考えていたのです

 

そして 彼らは モスクワに連れていかれて

そこで エカテリーナ2世と面談することになるのです。

 

当初ロシアは 彼らから色々日本の情報を得たようですが

日本帰国の嘆願書を何度も出してやっと日本への帰国が許されることになるのです。

 

この人の遭難と 幕末のペリーの要求がなんの関りを持つことになるのか??

 

 

それは

 

明日に続く。

 

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