
EXECUTIVE BLOG
2025.12.9
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日 12月8日は 開戦記念日でした、、
今日も この話に続きます、、、。
12月8日が来るたびに、
日本では太平洋戦争開戦の日として多くの報道や振り返りが行われます。
しかし最近は
「終戦の時には天皇が戦争を止められたのに、どうして開戦は止めなかったのか」
という疑問の声を耳にします。
この疑問は、当時の憲法である「大日本帝国憲法」の仕組みと、
天皇・政府・軍部の関係をよく知らないことに原因があります。
現代とはまったく異なる統治制度のもとで、日本は開戦に向かって進んでいきました。
その流れについての話になります。
まず大切な前提は、
当時の「天皇大権」は一見すると強大な権限を持っているように見えて、
実際には
「政府と軍部の決定に対して形式的に裁可を与える立場」
であったということです。
もちろん天皇個人の判断や意志がまったく反映されなかったわけではありません。
しかし制度上、天皇が政治の細部を直接動かしたり、
政治方針をひっくり返したりする仕組みにはなっていませんでした。
大日本帝国憲法は、明治期にプロイセン憲法をモデルにしてつくられました。
そこでは、天皇は“国家の元首”とされ、
統帥権や外交権などを「大権」として持つことが定められていました。
しかし、ここで重要なのは、
この「大権」は政府が天皇を補弼して行使すると決められていた点です。
すべての国務は、必ず「国務大臣の副署」が必要とされており、
これは「大臣が政治責任を負う」という意味でもありました。
天皇自身が政治責任を取る仕組みではなかったのです。
したがって、たとえ天皇がある政策に疑問を持っておられても、
内閣と軍部が一致して開戦に向かえば、
天皇はその決定を追認するという形になりやすい構造でした。
天皇が開戦を阻止しようとすれば、内閣を叱責し方向転換を迫る必要がありますが、
憲法と慣例のうえで、それは「天皇が政治に介入する行為」と理解され、
望ましくないとされていました。
明治以来の“立憲君主制としての天皇像”が、天皇自身の行動を強く縛っていたのです。
では、なぜ終戦の時には天皇の大きな判断が働いたのでしょうか。
ここが誤解の生まれやすい点です。
1945年の御前会議では、政府と軍部の意見が完全に割れました。
鈴木貫太郎内閣のもと、陸海軍のトップはなおも戦争継続を主張し、
外務省や一部の閣僚はこれ以上の戦争は不可能と訴えていました。
ここで初めて「どちらの道を選ぶべきか、天皇のご意見を伺いたい」と、
政府側から正式に諮問が行われたのです。
大日本帝国憲法において、
天皇は
「最後の決定権者」ではなく、
「政府から意見を求められた場合に判断を示す存在」でした。
つまり、終戦の判断は、天皇が積極的に政治を動かしたというよりも、
政府側が紛糾の打開策として“天皇のご聖断”を求めた結果、
天皇が意見を述べたという形でした。
一方で、1941年の開戦過程では、政府と軍部が「開戦やむなし」で一致していました。
もちろん内部には慎重論もありましたが、
最終的には陸軍・海軍・外務省・内閣の意思統一が図られ、
「帝国国策遂行要領」としてまとめられました。
その内容を天皇が御前会議で確認し、「御名御璽」という形式で裁可を与えたのです。
この裁可は、天皇が開戦を命令したという意味ではなく、
政府と軍部が決定した方針を承認しただけです。
憲法の枠組みの中で、天皇に拒否権があるわけではありませんでした。
ここで「天皇が拒否すれば開戦しなかったのでは?」と思われるかもしれません。
しかし当時の政治文化では、
天皇が政府や軍部の決定を覆すことは
「天皇の政治介入」と見なされ、
立憲君主制の原理に反すると考えられていました。
天皇自身も、そのような「政治を直接動かすこと」を強く避けておられました。
明治から昭和初期にかけての天皇は、
あくまで象徴的で節度ある君主であることが望ましいとされ、
その空気の中で天皇はご自身の意見を強く押し通すことが難しかったのです。
では、なぜ終戦時にはそれが可能になったのか。
それは、政府自身が決断できなくなり、
天皇の意見を必要とするほど状況が追い詰められていたからです。
しかも戦況は壊滅的で、国民の被害は極限まで達し、
軍事的にも政治的にも戦争継続は不可能になっていました。
このような危機の中で、天皇の意見は大きな重みを持ちました。
一方、開戦前の日本は、国際情勢が厳しかったとはいえ、
軍部は「今なら勝てる」「一撃を加えればアメリカを交渉の場に引き出せる」
と強く信じており、政府もその方針に引きずられていました。
国内の雰囲気も、「もう後には引けない」という空気が広がっていました。
天皇が開戦に対して何度も慎重な質問をされていたことは記録に残っていますが、
制度上、その疑問をもって政策を止める権限はありませんでした。
こうして見ると、終戦の時に天皇が大きな決断を下したのと同じ方法で、
開戦を止めることができるわけではなかったことが理解できます。
終戦は「政府が天皇に意見を求めた特別な事態」であり、
開戦は「政府と軍部が一致して進めたため、天皇は憲法上の手続きとして裁可しただけ」
でした。
当時の制度や政治文化を理解すると、
「天皇が開戦を止められなかったのは意志が弱かったからではない」
ということが分かります。
むしろ、制度の縛りの中で苦悩しつつ、
慎重に状況を見つめておられた姿が記録から浮かんできます。
今日、開戦記念日を迎えるたびに、私たちは戦争の悲劇だけでなく、
当時の政治制度がどれほど危ういバランスの上で成り立っていたかも
振り返る必要があります。
そして、二度と誤った道を歩まないためには、歴史を正しく理解することが大切です。
「なぜ止められなかったのか」という問いは、
その理解の第一歩になるのだと思います。