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社長&顧問ブログ

2023.5.1

天草四郎

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは

京都にあった遊郭の名前が 何故島原遊郭だったのか? の話でした。

 

普段はそんな事も気にしないのですが 興味を持ってみてみますと

そこから色々な歴史的な背景が見えてきます。

遊郭移転の様が 島原の乱のようだったと言うのが

その名づけの理由になったそうなのですが。

 

京都なのに 何故 島原なの? と思ってしまいます

京都でも 色々な事件は起きていたのでしょうが、

 

当時としては 大規模に幕府に対して抵抗すると言う事が きっと

庶民の中では大きな事件と思われていたのでしょう。

 

実際殆どの領民が殺されてしまい 住民が居なくなったところへ 後から

移民して住まわせたと言うのですから驚きです。

さらに 当時の領主は 大名と言う立場でありながら 事件の責任を取らされて

斬首にされているのです。

これも通常であれば 謹慎もしくはお家取り潰しかなとおもいますが

重大犯罪人と同じ刑である斬首とは、、 いかに幕府がこの一揆に対して警戒したかが分かります。

 

この時 当時の一揆軍が立て籠もったしろが 原城というのですが

平成に入り ここの発掘調査が行われたところ  大量の人骨の他に

十字架のロザリオも多く掘り出されたそうです。

 

この原城跡は 島原にありますので 連休を利用して行くのも良いかと思います。

 

この時 一揆の指導者だったのか、今でも名前が残っていますし 多くの方がご存知の

天草四郎です。

しかし

名前は知っているが どんな人物かと言われると 直ぐには出てこないかと思います。

 

天草四郎の本名は益田四郎。父親は益田甚兵衛といい、父もまたキリシタンでした。

 

父親はキリシタン大名小西行長の家臣で、小西家が没落したとは農業に従事していたといいます。

この四郎は9才の頃から学問を始め長崎に遊学に行っていたそうですから

そこで 蘭学などを学んだのではないでしょうか?

 

四郎が生まれる8年前に当たる1613年のキリスト教禁止令が出された年に、

「25年後に神の子が出現して人々を救う」と

当時のマルコス宣教師が予言を残していたそうなのです。

 

そしてちょうど25年後の1637年、四郎は数々の奇跡を起こしたとされることから、

人々はその宣教師が予言した「神の子だ」と言い出したのです。

それが、ちょうど島原の乱が勃発した年です。

 

 

島原の乱が起きたときの四郎はまだ16才の少年です。

 

この時に

四郎が起こした奇跡として言われているのが、

ハトが空から舞い降りて四郎の手の上で卵を産んだというものです。

 

もしかしたら一揆勢が 彼を神格化する事で一致団結する為の作戦だったのかもしれません。

その後

天草四郎は原城落城後に捕らえられて斬首され、長崎でさらし首にされてしまうのですが、

 

若干16歳の少年が 本当に自らの意思で 一揆軍を指揮していたのかどうかまでは

私には分かりません。

 

ただ この時の 国内の内乱の情報が京都まで伝わり

それが 何故か遊郭の名前になると言うのも変だとは思うのですが

 

京都の遊郭は これにより 島原遊郭と名付けられたのです。

 

では 次に

京都では どんなごたごたが起きたので 遊郭移転問題になったのか??

 

 

明日に続く、、、。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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