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社長&顧問ブログ

2020.9.16

寛政の三奇人

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです、

 

昨日までは 話が ITの話から

いつの間にか ペリー来航時の話になってしまい

 

大統領の語源は何か?にはじまり

鎖国を行っていた関係で ペリーからは 八丈島は 米国であると

突き付けられ 当時の幕府は大慌てになるのですが

 

最終的にはそういう結果にならなかった背景に

色々な人物の色々な時代での活動が 一つの線となって 解決に繋がったと

勝手に私が考えた話へと続いています

 

おさらいしますと

ペリー来航が 1853年ですよね

 

そして 田沼意次が老中になったのが 1769年

 

林子平が 三国通覧図説を書いたのが1785年

 

林子平が 桂川甫周と出会った頃は 多分1780年頃

 

松平定信が老中として寛政の改革を行ったのが1787年

 

です。

 

ペリー来航より70年から80年も前の人たちの行動が

ペリー達を驚愕させることになるのです

 

80年近く前と言いますと 今であれば 太平洋戦争終戦の時代位

前の話と言うことになりますね。

 

 

歴史というのは 時代時代の流れがあるのだと言うことを

改めて感じてしましまいます。

 

そして 今回の話も

登場人物は これだけではなく まだまだ出て来ます。

 

しかし それぞれの人たちは 直接的な関係が無い人もいるのですが

 

しかし どの一人も欠けていたら もしかしたらペリーの要求をのまなければならなかったかもしれないのです。

 

 

先に 私は 歴史上の人物で 誰が好きですか? と聞かれても 

誰と言う事ではなく それぞれの働きがあって歴史が動いていると言うことに

興味を惹かれ そのことが好きだと答えているのです。

 

 

こうして 中学高校の歴史を思い出しながら書いているので いい加減な部分や

間違っている部分も多いかと思いますが

一人の考えと思って目くじら立てずにお願いします。

 

何が言いたいかと言うと その時その時の時代の流れには逆らえませんが

いつの時代でも 重要な事は情報であると言うことなのです。

 

その情報が 今の時代は ITと言うツールのおかげで

一瞬で世界中を駆け巡りますが

 

 

江戸時代は その伝達力も遅く ましてや 鎖国をしていた江戸時代は

肝心な情報すら入ってこなかったのです。

 

しかし それでも 人間の欲求とでもいいますか、知りたいと言う意欲が

危険を冒してまで 探求心を掻き立てるのでしょうね。

 

寛政の改革の時の蘭学者も

天保の改革の時に蘭学者も

当時の幕府により 大変仕打ちにあっていますが

 

正しい情報を伝えたいとの一心で 動いていたと言うことが

読み取れます。

 

 

林子平は 最後 研究した書はすべて没収され その後の研究もすることが

出来ずに

最後は 牢でなくなるのですが

 

失意の中で 残した句が

「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」

 

全てを取り上げられた無念さを感じますね、

 

こう残して彼は 1793年に亡くなるのです

 

彼が残した書が その後重要な役割を果たすなど

思うことも無かったのです。

 

 

当たり前のことをしていれば 奇人言われずに済み 捕らえられることも無かったのでしょうが

 

話変わって 当時の 寛政の三奇人の 一人、

この方が誰か知らない方は多いかと思いますが

 

京都三条駅を出たところに 土下座をしている銅像をご存知の方は

いるのではないでしょうか?

殆ど興味を持たずに見ていますから 一体これが誰なのか? なんて知らないと

思いますが

この人が 寛政の三奇人の一人なんですよ

 

話は 逸れてしまいますが

明日は もとに戻って 幕末の危機を救った人の話になるのか?

三奇人の話になるのか???

 

 

それは

 

 

明日に続く、、。

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