EXECUTIVE BLOG
2020.7.2
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きす。
昨日までは 戦後30年近く経ったフィリピンルバング島で
日本兵が発見されると言うニュースが日本中に流れた話でした。
終戦後日本は平和国家になり経済も発展して
皆 戦争の事を忘れていた時に このニュースが流れた時は
日本中が驚いたのを 私もはっきり覚えております。
冒険家の鈴木さんは、ルバング島のジャングルにテントを張って、偶然にも小野田と遭遇して、一晩かけて小野田と話し合い、彼に戦争が終わったこと、
現在の日本の状況を説明し帰国を促すのですが、
小野田少尉は、自分は命令を受けてここに残留しているから、
その命令が解除されない限り勝手に帰るわけにはいかない、と鈴木の説得を一蹴したのです。
小野田少尉の中では 戦後30年経っても命令が生きていたのです。
終戦の出来事を前に書きましたが 軍隊では命令を守るのが常識なんです。
我々の常識で図ってしまうと理解できないと思うのですが
日本からの捜索隊は何度も終戦をしたと言う チラシをまいているし
投降のアナウンスをしていたので残留兵士は聞こえたならば出て来ると
思っていたのです。
しかし
小野田少尉はそれを聞いていたのですが
軍人として命令無くして投降はできないと考えていたのです。
その後鈴木さんは、小野田の上官と何とか連絡を取ってみるから、
後日、もう一度会って欲しいと小野田の約束を取りつけて 島を後にするのです。
帰国した鈴木さんは 小野田少尉の上官を探し出し、上官の谷口義美少佐が急遽ルバングに赴くことになるのでした。
三月十日、約束の場所に現れた小野田に対し、谷口さんはすでに軍人ではありませんが
谷口少佐として残留命令の解除を伝えたのです。
命令書を読み上げる谷口の前に、
小野田少尉は直立不動で「執銃(たてつつ)」の姿勢をとっていました。
ボロボロな軍服、目深に被った軍帽の破れから覗く鋭い眼光。背筋を真っ直ぐに伸ばし微動だにしないその姿勢が、小野田の戦争が終わっていないことを語っていたのです。
映画でも芝居でもない、本物の日本兵がそこにいたと日本中が感激しました。
命令書を読み終えた谷口さんは、二十九年ぶりに再会した小野田に対し、長年の任務遂行の労をねぎらい 昭和四十九年三月十日、小野田少尉の戦争はそこでやっと終わったのでした。
投降した小野田少尉に対し、フィリピン政府は寛大な措置をとりました。
一切の罪を問わなかったのです。
小野田少尉は長年にわたる潜伏生活の中で、地元軍人の殺害や生き延びるための略奪を行っていたのです。
このときの小野田さんは、死を覚悟しての投降だった、と後に語っていました。
祖国に戻った小野田さんに対し、政府は見舞金の贈呈を申し出るのですが、
小野田さんは拒否するのです。
どうしてもというので、彼はこのお金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付してしまうのでした。
首相との会見をも断り、検査入院の拘束から解かれた小野田が真っ先に向った先は、戦闘で亡くなった戦友の島田さんと小塚さんの墓だったのです。
帰国の当日、小野田さんはNHKのインタビューに対して
数日前までジャングル生活をしていた人とは思えない淡々とした口調で答えるのでした。
――人生の最も重要な三十年間、ジャングルの中で暮らしたことをどう思いますか。
「若い、一番意気盛んな時期に、大事な仕事を全身でやれたことを、幸福に思います」
――三十年間心に思い続けてきたことは。
「任務の遂行以外ありません」
――ご両親について考えたことはかなったですか。
「出かけるとき、両親には諦めてもらっていたので、そんなことは考えませんでした」
と答えたのでした。
小野田少尉の帰還は、平和ボケしていた日本人に衝撃を与えたのでした。
小野田少尉の常識は 戦後の日本人にとっては非常識に見えましたが
情報将校であった彼はとにかく命令を守り 任務を全うする事が常識だったのです。
その後 小野田さんは ブラジルに渡り平和で幸せな生活を過ごし
平成26年に91歳でお亡くなりになりました。
戦時中は我々の常識では考えられない事が多々あったと言う話が
続きました。
そして
明日からは
やっと前の話の続きにもどれるか??