
EXECUTIVE BLOG
2025.8.24
高光産業株式会社
妹尾八郎です。
昨日までは戦後の闇市の話しでした。
今日は そんな中で産まれた悲しい話に進みます、、、
戦後すぐの日本は、本当に食べる物に困っていました。
敗戦によって街は焼け野原となり、工場も農村も大きな打撃を受け、
十分な食料を生産できる状態ではありませんでした。
政府は配給制度で最低限のお米を支給しましたが、
その量は一人あたり一日二合程度。
しかも純粋な白米ではなく、麦や芋、雑穀を混ぜた粗末なものでした。
それだけでは到底生きていけず、体はみるみる痩せ、
病気にかかりやすくなる人も多くいました。
子どもたちの「お腹すいた」という声が街のあちこちで聞かれ、
大人たちは胸を痛めながらも、
どうにか生きるための方法を探さねばなりませんでした。
こうした状況の中で広まったのが「闇市」でした。
農村にはまだ米がありましたが、
正規の流通に乗せると公定価格で安く買い上げられてしまうため、
農家にとっては損になるばかりでした。
そこで農家と都市の人々が直接取引を行うようになったのです。
着物や帯、時計や指輪などの家財を持って農村に行き、それと米を交換する。
あるいは都会の闇市で法外な値段で米を買う。
これが「闇米」と呼ばれたものでした。
公定価格の数十倍にあたる高値でしたが、背に腹はかえられず、
人々は闇米に頼るしかありませんでした。
母親たちは重い荷物を抱えて農村まで歩き、
子どもの口に米を入れるために何でも差し出しました。
時には道中で倒れてしまう人もいたほどで、
それほどまでに人々の暮らしは極限状態だったのです。
しかし、そのような中で、あえて闇米を買わずに生きた人がいました。
その代表的な存在が、
当時東京地方裁判所の判事であった山口良忠裁判官です。
彼は鹿児島県出身で、
若い頃から真面目で正義感の強い人物として知られていました。
戦争中は軍の法務官として従軍し、
終戦後は司法官として法の下に人々を裁く立場につきました。
彼は戦後の混乱期においても
「裁判官は法を守る最後の砦でなければならない」
という強い信念を持ち続けていました。
当時、闇市での取引は明らかに法律で禁止された行為でした。
しかし実際には国民の多くが闇米に頼って生き延びていました。
裁判所にも闇市で捕まった人々の事件が数多く持ち込まれ、
裁判官たちも
「これは取り締まるべきなのか、それとも仕方のないことなのか」
と苦悩していました。
山口裁判官は、その中で
「法を守る者が自ら法を破ってはならない」と考えました。
裁判官という立場にある以上、自分が率先して闇米を買えば、
それは法の権威そのものを失わせることになる、
と彼は信じていたのです。
どれほど飢えても、家族がどれほど空腹を訴えても、彼は頑なに闇米を拒みました。
その生活は次第に体を蝕み、ついには栄養失調で倒れてしまいます。
医師の手当てもむなしく、1947年10月に亡くなりました。
まだ38歳という若さでした。
彼の死は社会に大きな衝撃を与えました。
新聞は「正義を守り通して命を落とした裁判官」と報じ、人々は深い感慨を抱きました。
「法律を守ることは尊い。しかしそのために命を失うのはあまりにも悲しい」
という複雑な思いが多くの人々の心を揺さぶったのです。
法を守ることと、人として生きること。
その二つの価値があまりに乖離していた戦後の現実を、
山口裁判官の死はまざまざと示しました。
彼の死後、司法界では
「法の理想と現実の生活との間の矛盾をどう調和させるべきか」
という議論が盛んに行われました。
また、国民の間でも
「法律は本当に人々を守るためにあるのか」という問いが投げかけられました。
山口裁判官は法を守ることに殉じた存在として称えられる一方で、
その死は国家が国民を守ることができなかった象徴でもあったのです。
闇市は、違法でありながらも多くの人々にとって生きるための「命の綱」でした。
そこでは食べ物だけでなく、衣服や日用品、時には娯楽品までが取引され、
焼け跡に新たな活気をもたらしました.
戦後文化の一部を形づくるほどの影響力を持つまでになりました。
しかしその背後には、法と現実が大きくかけ離れた悲しい状況がありました。
「生きるためには法を破らざるを得ない」という時代だったのです。
その中で「法を破るくらいなら死を選ぶ」と考えた山口裁判官の存在は、
戦後日本の矛盾そのものを映し出すものでした。
今を生きる私たちは、
山口裁判官を単に「正義を貫いた立派な人」と称えるだけでは足りないでしょう。
彼の死は「制度が人々を守れなかった」ことの証でもあります。
人間が生きるために法律を破らなければならない社会は、健全な社会とは言えません。
法律が人々の命と暮らしを支えるものであるためには、
現実に即した制度が整っていなければならないのです。
戦争が終わったからといって、すぐに平和と豊かさが訪れるわけではありません。
むしろ戦後の数年間は、人々が命をつなぐことさえ難しい時代でした。
飢えと矛盾の中で、それでも必死に生き抜いた人々がいました。
そして、信念を貫き命を落とした山口良忠裁判官の物語があります。
彼の死は、決して無駄ではありませんでした。
その存在が司法界や社会に投げかけた問いは、今もなお重く響いています。
法律は人のためにあるのか、それとも理念のためにあるのか。
人が生きることと正義を守ることを、どうやって両立させるのか。
山口裁判官の生き方と死は、私たちに今も問いかけ続けています。
そして二度と、
人々が生きるために法を破らなければならない世の中をつくらないことこそが、
彼の死から学ぶべき最も大切な教訓なのではないでしょうか。