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2022.9.4

崇徳天皇

高光産業株式会社 妹尾八郎です

 

昨日からの続きです。

 

昨日までは 江戸末期から明治維新の話で、

徳川幕府を中心としていた時代から 薩長が政権を握り

天皇陛下を中心とした国家を作り上げた話でした。

 

戦国時代以降 朝廷が表舞台に出る事はなく

将軍職が天下を治めていたのです。

 

それを 薩長が 天皇を最上位に立てて 全てが 天皇の名のもとに

という事で 国家運営を握っていた気がします。

しかし 天皇自身が 独裁的に国を運営しようという事ではなく

政府が決めた事に対して裁可を行っており

天皇陛下は争いを好んでいたわけではないのです。

 

太平洋戦争も軍部の暴走がもたらした結果であり 天皇陛下自身は平和的な

解決を最後まで望んでおられたのは事実です

 

しかし その天皇家も 平安時代までは 権力争いを行っていたようです。

 

日本三大怨霊の話も 朝廷が関係する話だと思います。

 

 

菅原道真、平将門、崇徳天皇の三人は、

「日本三大怨霊」として名高いですが、共通しているのは没した後、

朝廷に災いをもたらしたとされています。

そして彼らを恐れおののいた朝廷はやがて彼らを神として祀ったのです。

 

今日からの話の 三大怨霊の一人 崇徳天皇は9月14日が命日にあたります。

 

崇徳天皇は平安時代、平氏と源氏が武士として台頭し始めたころ、

3歳で即位し22歳で譲位をした天皇なのです。

 

その天皇が何故 怨霊となったのか? の話になります。

 

崇徳天皇がなぜ怨霊になったかを一言で言いますと

弟の後白河天皇との確執に苦しんだ事が原因とされています。

 

実は、崇徳帝は誕生から気の毒な境遇だったのです。

父・鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれ避けられる子だったからです。

これは崇徳帝の父が鳥羽帝ではなく、曽祖父にあたる白河法皇と母・璋子の密通の結果生まれた子だという意味なのです。

 

つまり、本当は叔父さんにあたる人物という意味で、父からそう呼ばれていたのです。

このことが、鳥羽天皇と崇徳天皇の間に距離を作った事になるのですが、

崇徳帝には何ら責任のないことなのです。

それなのに普通には考え難いのですが

白河法皇が鳥羽帝に譲位を迫り、幼い崇徳帝を天皇にしてしまったのです。

 

この事で鳥羽帝に一層の憎しみが生まれる事になったのです。

 

この恨みを晴らすために、鳥羽天皇は

白河法皇没後に誕生した崇徳帝の弟になる近衛天皇への譲位を、

鳥羽帝が崇徳天皇に迫るのでした。

 

このとき近衛帝はわずか2歳だったのですが、16歳の若さで崩御してしまうのです。

 

次に鳥羽帝が指名したのが、崇徳帝の弟・後白河天皇だったのです。

ここから長く苦しい崇徳帝と後白河帝の確執と戦いが始まる事になるのです。

 

先に書いた 明治維新の話と同じで 関ヶ原の恨みをもった

薩長が 徳川の仕返しをしたり

いまだに 会津の人達は 長州人を許してないのですから

本当に人間の恨みつらみは怖いと思います。

 

さて それで

崇徳天皇は その後何故 怨霊になるのか????

彼は 全く悪くないのにと思うのですが、、、、、

 

それは????

 

明日に続く、、、、、。

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