EXECUTIVE BLOG
2022.5.10
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日までは 会津と長州の仲が悪いと言う話から
会津藩初代藩主の 保科正之の話になって
彼が幕臣だった時 江戸で大火事が起き 江戸城の天守閣まで燃えおちて
しまった事件がありました
これを 通称 振袖火事と呼ばれているのですが その原因が
失恋した女性の振袖を燃やしていたところ おちからの強風で 大火事になり
約10万人の人が犠牲になったと言う話でした。
しかし この火事は 振袖が燃えたという事になっているのですが
その裏には 大きな秘密が隠されていたと言う話もあるのです。
いつの時代も陰謀論という話がありますが
今日の話は振袖火事の陰謀論の話になります。
1人の少女の恋心によって仕立てられた振袖によって江戸の街が焼き尽くされたと言う振袖火事、
これは後にこの大火事にまつわる作り話の後付けという説が有力なのだそうです。
この事件には不自然なところがたくさんあるためなのです。
その理由の一つは、江戸時代に火事が起きると、火元には厳罰が課せられていて、
火事から数十年も再建が許されないという非常に思い罰が課せられていたのです。
にも関わらず、この事件で火元になった本郷本妙寺は何もおとがめが無かったのでした。しかも供養を行った日は朝から強風が吹いていて、そんな日にわざわざ火を使う事等という事は万が一の火事を考えると不自然だと言われているのです。
では 何が真相かと言うと
当時の老中・松平信綱が江戸の都市整備のために放火したという説があるのです。
当時の江戸は急速に発展して人口が爆発的に増加していて、
治安が非常に悪化して統治するのに限界を迎えていたそうなのです。
しかし現代と同じように、都市改革のため住民に立ち退きを支持する・説得を行う必要がありましたし立ち退く際の補償も必要だったのです。
そこでわざと火事を起こして、焼け野原にしてしまおうという作戦を立てたと言う説があるのです。
そうすれば住民たちは立ち退きを余儀なくされ都市計画が前に進むと言う説があったのです。
しかし、その為に江戸城本丸まで焼けてしまい幕府側も被害を受けてしまいました。
という事で この説はあまり信憑性が無いかもしれません。
そこで もう一つの説が有力視されているのです。
それは本当の火の元は本妙寺の隣にあった老中・阿部忠秋邸からだったという説です。
火事の火元には厳罰と言うのが当時の掟でした。
その幕府の老中邸が火元なんて知れたとすると、
幕府の権威は地に落ちてしまい 江戸の統治にも問題が出る可能性がありました。
そこで幕府が秘密裏に頭を下げて火元を隣の本郷本妙寺に火の元になったという事にしてくれと頼んだという説があるのです。
それを裏付けるように
火事の後に阿部家からは供養代として関東大震災まで、毎年に寄付が行われていた事実があると言うのです。
何が真相なのかは、今となってはわかりません。どちらの説が本当だとしても、
当時権力を握っていた幕府のやり方は、現在の 日本の近くの国でも
見受けられるような気がします。
時代が変わっても権力者は自分の都合の良いように情報を操作するのではと思います。
で この振袖火事とよく混同されているのが
「八百屋お七」の火事ですね
この火事は 振袖火事から30年ほどして起きた火事です
この内容は?????
それは?????
明日に続く、、、、。