EXECUTIVE BLOG
2020.12.24
高光産業株式会社 妹尾八郎です
昨日からの続きです
昨日は 12月23日
もうこれが何の日か忘れてしまった方も多いかと思います。
今日がクリスマスイブだから クリスマスイブイブかとくらいしか
思うつきませんね
令和にもなりますと 平成の事すら昔の話のようになってしまいます
それくらい ITの時代になり進化が早いからでしょうか?
平成までは 12月23日は 天皇誕生日で休日だったのです。
私の物流業界は12月は繁忙期で 現場にいると毎日が残業で
疲れる毎日でしたが 23日が休日になったことで ホッとしたことを
覚えています。
そして 昭和の時代での 12月23日と言うと
極東軍事裁判で7人のA級戦犯が死刑になった日として
古い方の記憶にはあるかもしれません。
連合国は 12月23日になるたびに 日本人が忘れる事が出来ないように
摺りこむために あえて 当時皇太子であり その後天皇陛下になる平成天皇の
誕生日に当てたのですから
恐ろしいほどの復讐心だと感じてしまいます。
この時処刑された7人のうち 6人が軍人で 1人が文官だったので
当時 軍人以外が裁かれたと大きく話題になりました
その一人が 先日から書いている 広田弘毅と言う人です
先日彼の生誕の地に行ってみました
今は 福岡市中央区天神3丁目15番地にあり 昔はここを鍛冶町と言ってたようです
細い路地の片隅なので 見落とすかもしれませんが
決してお屋敷の跡とかではないようです
それもそのはずで 彼は石材屋の家の生まれで 決して裕福な家庭の生まれでは無いのです
貧乏な幼少期を過ごしましたが、
広田は懸命に勉強し、やがて総理大臣となりました。
戦前の総理大臣の中で、広田程の境遇から総理大臣に上り詰めた人はいません。
初代の伊藤博文から18代目の寺内正毅までの総理大臣は皆、爵位を持っています。
「平民宰相」と呼ばれた原敬も実は盛岡藩の家老の家柄。その後の総理大臣の多くも、
幕臣や藩士の生まれである事がほとんどでした。
つまり戦前の総理大臣の多くは、爵位を持っていたり、
ある程度身分の高い家柄出身である事が多く、
本来の意味での「平民宰相」は広田だったのです。
最近では 田中角栄の事を 平民宰相と呼んでいました。
彼は 小学校しか出ていなくて 総理大臣まで上り詰めた人物です。
その広田不運だったのは
彼が総理大臣になった頃は軍部が暴走を始めた時代だったからです。
血縁関係に大物がいなかった彼は、軍部の意向に抗えずに様々な要求を呑んでいくのです。
そして それが 戦後の軍事裁判にて誤解を招くとになり死刑を宣告されて
しまうのですが
彼は 一切弁明をしなかったのです
普通の人であれば
冗談じゃないよ 物事を平和に進めようとしても 何から何まで軍部が拒否しやがって
大臣を指名しても こちらの政策に合わないとなると 軍部が大臣を辞職させやがって
結局言いなりではないか!
と 叫んでいたかもしれません
しかし 一切黙して語らず刑場の露と消えるのです
では 何故 そんな事態になってしまったのか?
先にも書きましたが
軍部大臣現役武官制を復活させたからなのです。
だったら そんな制度を復活しなければ良かったではと言う人も居るでしょうが
後からであれば なんでも言えます。
広田だって この制度を復活させたくはなかったのです
軍部の中で 皇道派と統制派の派閥争いに巻き込まれ 軍部にはほとほと
困り果た上での決断だったのです。
昭和20年までの歴史は 軍部と政治の絡みが 現代の人間は理解し難いです。
それでは
一体 広田弘毅は どんな人物だったのか?
その話は
明日に続く、、。