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社長&顧問ブログ

2025.9.7

広田の人物像

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは

A級戦犯の中で ただ一人の文官だった 広田弘毅の話しでした。

 

今日は 彼の人物像についてです、、、。

 

広田弘毅という人物は、

軍人ではなく外交官出身の稀有な首相であり、

また明治から昭和にかけて日本が激動の国際社会に身を置く中で、

その最前線に立ち続けた男でした。

 

福岡の商家に生まれ、若くして語学の才能を発揮し、

外務省に入省するとその誠実で温厚な人柄と共に、

国際情勢を見抜く鋭い目で知られるようになりました。

 

英語だけでなくロシア語にも通じた彼は、

日露の外交現場においても重要な役割を果たし、

ソ連との関係改善に尽力したことでも有名です。

 

そのキャリアは決して派手ではなく、

むしろ陰で汗をかくタイプの外交官でしたが、

同僚からの信頼は厚く、後輩からも慕われる存在でした。

 

首相となったのは昭和十年のことであり、

この時期はすでに軍部の台頭が顕著になりつつある困難な時代でした。

 

二・二六事件の直後という混乱の中で、

政治の安定を求められた広田は、

軍部に強く逆らえば政権が瓦解し、国が混乱に陥ることを恐れ、

軍部と妥協を重ねながら内閣を運営しました。

これが後に「軍部に迎合した」と批判される原因となりましたが、

彼自身はあくまで国の安定を優先し、

無益な衝突を避けようとした結果でした。

 

広田はしばしば「人が良すぎる」「温厚すぎる」と評されました。

激しい権力闘争の渦中にあって、彼は声を荒げることなく、

柔和な態度で物事を収めようとしました。

 

これが政治の世界では弱さと見なされ、

軍人たちの横暴を許す隙となったとも言われます。

 

しかし一方で、その柔らかさこそ彼の人間的魅力であり、

戦後に至るまで

「広田さんほど清廉な人はいなかった」と語る人は多かったのです。

 

外務大臣としての広田は、可能な限り戦争を避けるために奔走しました。

日中戦争が拡大する中でも、国際社会との橋渡し役を務め、

日本が孤立しないよう努力しました。

外交文書を読み解くと、

彼が一貫して平和を望んでいたことがよく分かります。

 

軍部の強硬論を押しとどめることは出来ませんでしたが、

広田自身が戦争を求めていたわけでは決してありませんでした。

その温厚な姿勢は家庭でも同じでした。

 

夫婦仲は極めて良好であり、夫人を大切にし、

娘にも愛情深く接していたことが伝わっています。

戦犯として裁かれる直前にも家族を気遣う言葉を残しており、

最後まで父親としての思いを忘れませんでした。

 

外交官として国のために尽くした人間が、

最終的に戦争の責任を問われて死刑となることは、

あまりにも不条理な運命でした。

 

彼を知る人々が「なぜ広田なのか」

と口を揃えて疑問を呈したのも無理はありません。

 

実際、極東軍事裁判における広田の罪状は、

他の戦犯と比べても具体性に乏しく、

「軍部を止めなかったこと」が最大の理由とされました。

 

つまり

「何をしたか」ではなく

「何をしなかったか」を問われたのです。

 

その厳しさは、時代の犠牲者とも呼べる彼の人生を象徴しています。

広田は最後まで弁明をほとんどせず、

黙して判決を受け入れました。

 

その姿勢は潔さとも取られますが、

一方で外交官としての冷静さを貫いた結果でもありました。

彼は自分が死ぬことで日本の国際的立場が少しでも安定するならば、

それを受け入れる覚悟を持っていたのかもしれません。

 

夫人が夫の死に先立ち、自ら命を絶ったのも、

この夫の穏やかな覚悟に寄り添う行為でした。

共に歩んできた人生を最後まで一緒にしたい、

夫に恥じない最期を選びたいという思いが彼女を動かしたのでしょう。

 

広田の死後、日本人の間には複雑な感情が渦巻きました。

確かに戦争は悲惨な結末を迎え、多くの指導者には責任がありました。

しかし広田がその列に並べられることには、多くの人が納得できませんでした。

 

郷土である福岡では特にその声が強く、

「広田さんは悪人ではない、むしろ人の良さが仇になった」と語られました。

彼を知る外交官仲間も

「もし広田がもう少し強引であれば、戦争を止められたかもしれない」

と悔やみつつ、

「しかし彼はそういう人ではなかった」と口を揃えました。

 

こうした評価は、広田が戦後も単なる戦犯の一人ではなく、

人間広田弘毅として語り継がれる理由となりました。

 

彼の人生を振り返れば、死刑に値する行為よりも、

むしろ誠実に国に尽くそうとした努力ばかりが見えてきます。

それだけに、広田の処刑は日本人にとって

「戦争の恐ろしさ」と「歴史の理不尽さ」を

同時に突き付ける出来事となったのです。

 

彼の名を記憶にとどめることは、ただ一人の悲劇を悼むことに留まらず、

国家と個人、権力と責任のあり方を考えるきっかけとなります。

軍人ではなく、穏やかな文官が命を落としたことの意味は、

決して小さくありません。広田弘毅の生涯は、

戦争がいかに善良な人間までも巻き込み、破壊していくかを示す象徴であり、

その教訓を忘れないことこそが、未来への責任であるといえるのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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