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社長&顧問ブログ

2025.9.6

広田弘毅

高光産業株式会社

妹尾八郎です。

 

昨日までは A級戦犯の処刑迄の日程の組み方の話しでした

これには 政治的な意図があるとしか思えない話です。

 

今日は A級戦犯の中でただ一人文官だった広田弘毅の話に進みます。

 

太平洋戦争の敗戦後に開かれた極東軍事裁判において、

A級戦犯として裁かれ処刑された七名の中に、

唯一軍人ではない文官の広田弘毅が含まれていました。

 

広田は外交官出身であり、外務省のエリートとして名を馳せ、

昭和十年には首相にまで登りつめた人物でした。

 

軍部の暴走を抑えることが出来なかった政治家としての責任を問われたとはいえ、

なぜ軍刀を振るうこともなく、戦場を知らない彼が

死刑という最も重い刑を受けなければならなかったのか、

当時の人々にも大きな衝撃を与えました。

 

広田は首相退任後も外務大臣や枢密顧問官を務めましたが、

戦争遂行を主導した軍人に比べると、その役割は一歩引いた位置にありました。

 

彼は軍部と距離を置きつつも対立は避け、

むしろ調和を図ろうとする姿勢が目立ちました。

 

しかし、この中立的とも見える態度こそが、

裁判官からは

「軍部の侵略を抑制せず、結果として戦争を助長した」と受け止められ、

戦争指導者としての責任を免れないと判断されたのです。

 

つまり積極的に戦争を推進したわけではないものの、

止めなかった責任を問われたということでした。

 

周囲からは「なぜ広田が死刑なのか」という疑問の声が絶えませんでした。

軍服に身を包んだ東条英機や松井石根と並ぶには、

あまりにも性格が温厚で、文化人としての顔を持つ広田は異質の存在でした。

 

外交官として培った柔和な人柄から、国内外に友人も多く、

彼を知る者ほど死刑判決を不当と感じました。

 

判決直後、日本の新聞や世間では大きな驚きと同情の声が広がり、

特に福岡の出身地では

「外交官がなぜ」「軍人ではないのに」という嘆きの声が相次いだのです。

 

広田自身は、判決を淡々と受け止めたといわれます。

法廷でも反論や自己弁護はほとんどせず、

ただ黙して成り行きを受け入れる姿が印象的でした。

 

それは外交官としての冷静さでもあり、

また彼の信条として「国家の一員として責任を引き受ける」という覚悟でもありました。

 

広田は最後まで日本を愛し、

自らの行動が結果として戦争を止められなかったことを悔いていたと伝えられています。

 

その姿勢は、むしろ潔さとして

一部の日本人には美徳のように受け止められましたが、

同時に

「なぜ一番穏やかな人が死なねばならぬのか」

という理不尽さへの怒りも生みました。

 

そしてもう一つ、

彼の死に関して語り継がれるのが夫人の思いです。

 

広田の妻は夫が穏やかな心で死地に向かえるようにと考え、

自ら命を絶ったと伝えられています。

 

夫の処刑に伴い、悲しみとともに世間からの非難や注目に晒されることを避け、

夫に余計な心配をかけまいとしたのかもしれません。

あるいは、

伴侶として最後まで共にあるという強い決意がそうさせたとも考えられます。

 

いずれにしても、その胸中には

「夫に恥じない生き方を示し、静かに見送りたい」

という痛切な思いがあったことでしょう。

 

夫人の自刃は、広田を知る多くの人に深い衝撃を与え、

夫婦の絆の強さを示すものとして人々の記憶に残りました。

 

当時の日本人の中には、広田の死刑を聞いて涙を流した人も少なくありませんでした。

 

特に戦争に疑問を抱きながらも声を上げられずに沈黙してきた知識人や庶民は、

広田の姿に自らを重ね合わせ

「自分もまた何もできなかった」と悔恨の思いを抱きました。

 

ある老人は

「広田さんは我々庶民の代表だ。戦争を止められなかった罪で死んだのは、

国民全ての罪を一身に背負ったのだ」

と語ったといいます。

 

また、福岡の出身者の中には

「郷土の誇りであった広田さんが、なぜこのような運命に」

と肩を落とす人が多く、

彼の死は地域に深い影を落としました。

 

戦後の混乱の中で日々の生活に追われる国民にとっても、

広田の死は心に重く響きました。

 

軍人が戦争の責任を問われるのは理解できても、

外交官である彼が同列に処刑されることは理解しがたいことでした。

それは同時に

「誰もが責任を問われうる」という厳しい現実を突きつけたのです。

 

裁判の是非は今なお議論されますが、

広田の存在は

「戦争を止めなかったことの責任」という新しい視点を日本人に突き付けました。

 

自ら刀を振るわずとも、声を上げなかったことが罪とされる、

その厳しさを通じて、戦争の悲惨さと人間の責任の重さが浮かび上がります。

 

そして広田の夫人の決断や、当時の日本人が語った悲しみや怒りは、

今もなお我々に深い問いを投げかけています。

 

二度と同じ過ちを繰り返してはならない、

権力に流されることなく声を上げる勇気を持たねばならない、

そして戦争の惨禍に無関心であってはならないという教訓を、

広田弘毅の姿は静かに伝えています。

 

彼の最期は一人の文官の死にとどまらず、

日本人一人一人に課された責任を象徴するものであり、

そのことを忘れない限り、あの悲劇は未来への戒めとして生き続けるのです。

高光産業株式会社 公式サイト

https://takamitsu.com/

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